朝日出版社ウェブマガジン

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あさひてらすの詩のてらす

「二十五歳」と9篇の詩(ナカタサトミ)

今回は10篇、ナカタサトミさんの作品を掲載いたします。すでに掲載している「『美しい祖父』と10篇の詩」と「『八階の女』と7篇の詩」もぜひご一読ください。


 

親密さとその困難について

 

性的感情はいたましい宝物の数々をおさめた

トリンケットボックスのかわいい鍵

だからときどき遠くへやってしまいたくなる

親しくなればなるほど人におびえるという

不幸せな癖を私に背負わせた彼の手配写真を

男性の家の冷蔵庫に貼ってしまうかわりに

自分のノートブックに犬の詩を書いています

ほんとうは言語ではない言語がほしいのに

ばらばらになることでしか生き延びられない

みじめさごと抱きしめてくれたら

もう一度ひとりになれるかもしれないけど

私は私自身の指の間からもこぼれる

 

 

石の詩

 

よるべない者のため流れる河

そのほとりでしんしんと冷えゆく石は

人を憎むちからの尊さについて

口を挟まず聴いてくれる

すべっこい黒い肌に無遠慮に触る

そんな卑劣な真似はできず

ただそばへ腰をおろして

夜の風に生傷を晒し

むしろ自分が嬲られるようにして

声のないまま話している

怒りをもつ人間はさいわいであると

かたく信じる者のひとりとして

友だちにはなれないしなりたくもない

どちらかといえば嫌いな人が歌う

美しい歌に惑わされたい夜明けも

非実在の石が赦すから

私は河のそばでこっそり泣くことができる   

 

 

取扱説明書

 

名前しか知らないあなたは声に出してしまう

「それらしい言葉で僕の空欄を埋めてくれ」

まどろんだ視線や半日経ったオードトワレ

言葉ならざる言葉で

おしゃべりするのが好きだから

「無理だよ」

と(私は言う)

言葉とは呪いまじないの類だから

切実なときにしか使いたくない

なのにたくさんの詩を書いて

パパ譲りの茶色い髪の端から

23.5cmの足のつまさきから

どうやら詩人になっていく

それは悲しい階調になっている

ドラッグストアに立ち寄るように

私を薬みたいに思わないで

私の傷口を触るならその汚い手を洗ってから

病院の手袋をつけてね

他人の人生を観るときは部屋を明るくして

画面から離れていること

私の部屋の中

読みかけの金瓶梅とUCCの無糖の缶

ピンクのくままで見つけないこと

あなたが詩を読むとき

詩人もまたあなたを読もうとしているのだ  

 

 

衝動

 

中也もみすゞも山頭火も

世界じゅうの詩をくべて

燃えさかるパン焼き窯で焼いた

三日月型の甘く大きなパン

砂糖が多すぎるコーヒー牛乳

親友の父親に月のお小遣いをぜんぶあげて

二人で動物園へ行く平日

田舎道に出てくる蛇を振り回して

殺してやっぱり焼いて食べること

クラスみんながその名前でくすくす笑う

雲谷庵のそばで私は宇宙人を見たと

嘘をついて学年じゅう混乱におとしいれて

もう一度児童相談所に保護されたい

 

 

言葉の菩提寺

 

私は奇妙なスクランブル交差点に立って

死んだ身体を何千何万回と轢き殺されては

よみがえることをくりかえしています

愛着と恐怖と昂奮と軽蔑とが交わる

不吉な地点に私の生命と性とはあって

それはたとえば愛する恋人のやさしい目を

いますぐ突き潰してしまいたいと願うことや

友達のまごころに満ちた親切を鼻で笑って

可愛い顔に唾を吐きかける想像や

そういうおそらくは理解されがたい衝動を

水浴びを終えた犬が首をぶんぶんと回して

しずくをはらうようにはらいつづけること

診察室に座る八歳の透明人間に気づかないで

いつもの仕事にかかる児童精神科医の手と口

娘が人前で小さな失敗をするたびに

一秒足らずの薄ら笑いを浮かべていた母

去年の冬孫娘を一晩縛りつけた庭の木に

ピンク色の花が咲いたと喜ぶ祖母

祖母と母と孫娘とはどこまでも

女と女と女でありましたし

祖父について

痴漢の小父さんと住んでるみたいと言ったら

家じゅうの者でなにかひどいことをしました

轢き殺された私の脳味噌の文字が横断歩道に

整列して詩をつくるのはそのせいなのです  

 

 

豆腐

 

四角く柔らかい脳髄のお遊戯室で

詩人よりも死人のほうが好きな三姉妹が

大文字のVに陰裂を描き加えて笑っている

彼女たちはあらゆる割れ目の守護天使で

見知った誰かの血に濡れた古い生傷を触って

素知らぬふりでそこらへ指をなすりつける

恥ずべき人々を形式言語で焼き殺すため

駝鳥の目玉のように大きな虫眼鏡を

三人がかりで持って翔んでいる

いっそ殺すくらい抱きしめてくれなければ

他者を忘れてあげることができない私の性

暗い結びつきに繋がれて育ったからなのか

高架下にある喫茶チェーンの一番奥の席や

もう自動販売機の白い光だけのホームや

同じく夜の海峡や いちゃついた眠りや

頼ってくるかわいそうな大人が好きだ

本を読んだパンダとうとう出発する 水曜日

苦行 畢竟 卑怯 自供 他郷 狂おしい今日あり

体系的に整理された解離症を文学と呼ぶなら

私はあと少しだけ生きのばすことができる

象徴の領域で女を陵辱する人々の顔々々

父母からの悲しみという遺伝や小児の嘘

ミートソーススパゲティ 食堂の檸檬水 三宮

頼ってくるかわいそうな大人はきらいだ

私は私の愛するもののすべてを憎もうとする

 

 

なりたち

 

暗いところで読書はするなと

大人に言われていたけれど

暗いところで暗い本ばかりをむさぼって

自分も大人になってしまうことができた

暗くないところを見つけられるほど

賢くも強くもなかったから

言葉に脳を食われて詩人になる

 

 

リップクリーム

 

十一歳の夏

商店街にあるドラッグストアで

色付きのリップクリームを買って

母親と共有の子ども部屋に隠していたら

お前はこの先高校を中退して妊婦になる

と祖母が言った

あの家にしばらく暮らせば

蝉の鳴き声も隣県の海のさざなみになる

(女になるな 女になるなと神様が言う)

燃え盛る王冠 高慢とバイアスの一族

世界を焼く悪意を頭頂にあずけられて

私はよくも生きておられたものだ

愛しても罰せられない父親がほしい

現実味と生の実感がほしい

果物を女性詩人らしく齧ることができない

祖母よ あなたは男は家畜同然だと言う

そこには官能がなく生命への敬意もなく

秋になると私の呼吸器にふく風のように

冷たくて異性愛者としての私を

どこにおけばよいかわからない

脳髄にある学習机の抽斗から

あなたがリップクリームをとって捨てた

午後の庭の蝉はみんなしんじゃったのだ

 

 

大聖堂の詩

 

たとえば私の愛する人が

加害欲から誰かを壊したら

トレンカディスの生をその誰かが

生きていくことになるのだとしたら

いったいどうするだろう

わからないことがたくさんある

怖いとき頭がぼうっとして

深刻な問題についても

興味がないどうでもいいと言ってしまう

あるいは喉の奥からはじけるように

狂った笑いがこみあげる

これはいったい罪というものか

空虚で宗教的ではち切れそうな若さ

性 生命 政治 死と暴力からなる

暮らしはいつまで続くんか

愛すれば愛するほどに逃げなければと思う

おかしいのは私のほうだと読む人も思うか

わからんねって言ってくれる友達の

私が知らない傷と孤独

   

 

二十五歳

 

空洞を嗅ぎつけて

うらさびしい道の向こうから

老いぼれの犬が駆け寄ってくる

季節外れの植物の種も

私のほうへ漂ってくる

それをいちいち追いはらったり

追いはらわなかったりしながら

存在に意味づけの雨を降らされながら

ぬかるんだ道でお気に入りの靴をよごし

自業自得と言われている

大人になりすぎた まだ若すぎる

痩せすぎだ 肥っている

手前勝手な指図をうけながら

疲れた足どりで歩くと身体に玉の汗がふく

昨日洗ったままの私の髪は

れんげ畑でアニムスと抱きあうときの

かなしい官能の匂いがしている

 

 

 

 

〈世話人より〉

 ここに紹介するナカタサトミの作品は、今回投稿された作品群から世話人が選んだものである。さて、今回紹介する作品10篇もまたこれまでの作品と同じく、各作品の完成度や自立性と同時に、作品同士の有機的関連性・複層的に組み込まれた主題群の点で際立っている。注目すべき主題やモチーフとしては、埋められぬ空白、空虚を捉える感覚、自己の虚無性、記憶の間歇的な想起と人生への絶望、生の不調和と場違いな生命の衝動、穢れた現実と突然湧き上がる生への決意、逆説的な生命肯定、などだろうか。

 強調すべきなのは、表現力である。すべてのモチーフが「自己の外」にあるようでいて、実は、内面の投影(分身)でもあるカラクリは、非常に巧緻である。例えば、金子光晴の詩世界が「叙景の形を借りた自画像」であったように、これらの詩もまた、内的独白を、世界の風景とその動きとして描いていると言って良いだろう。今回、とりわけ注目したいのは、「詩人」という言葉が5回、「詩」と言う言葉が7回出現すること、また、たとえ衝動的に炎にくべて燃やしてしまうとしても、「中也もみすゞも山頭火も」(「衝動」)と、先行する詩人たちの名まえに言及していることだ。これは、短期間のうちに、ナカタサトミが自らを「詩人」として再定義、ないし、再確認し始めた証しかもしれない。

 今回紹介した10篇のうち、例えば、最後の作品「二十五歳」を取り上げてみよう。

 この「二十五歳」も、単なる印象詩や感情の吐露ではなく、もちろん、単なる叙景詩ではなくて、じぶんの動き・風景の動きを内的に独白しながら、時間の構成、感覚表現をかなり精緻に組み上げている。主題である「存在の虚しさ」や「生活のやるせなさ」が、感覚的な嗅覚によって表現されている、とも言えよう。例えば、「ぬかるんだ道」や「靴をよごす」「汗」などが虚しさを指し示し、「まだ若すぎる」「手前勝手な指図」などが社会からの道徳的・規範的圧力を示唆し、また、肉体と官能を通じた存在確認は「アニムスと抱きあう」「官能の匂い」といった表現で行われる。これは、反理性、反道徳の態度でもあろう。ただし、「かなしい」と言う反省的自覚も併せ持つ。すなわち、「アニムスと抱き合う」とは、ユング的な<内なる男性性>を強調すれば自己愛であり、「抱き合う」を重視すれば〈他者との統合願望〉でもあるような、錯綜した感情をよく表現している。おそらく、〈性的・官能的接触を通じた孤独の意識〉という矛盾する現在が、<二十五歳の空洞>なのだろう。

 この作品には実は、「金子光晴にならって」という注記があったが、確かに、金子光晴にも、同名の「二十五歳」という作品がある。ナカタサトミが、金子光晴を敬愛しているかどうか不明であるし、題名の借用を除くと、金子の言葉の模倣や引用は全くないのだが、しかしながら、存在のうつろさを嗅ぎとる感性と、その一方で、身体と感覚を通じて生を実感しようとする衝動、社会的規範への違和感、および、生きる倦怠感などの点で、ナカタサトミは、金子光晴と明らかな精神的同調を見せている。これは、決して直接的影響ではなくて、「精神的共振」や「類似する感受性」と言うべきだろう。とくに、生のやるせなさを、官能の感覚的細部で確かめる行為は、金子光晴の「反理性」「反道徳」的詩精神と響きあう。

 金子光晴の示す「二十五歳」の世界観と、その中で自己と世界のズレを感覚で確かめようとする姿勢を、このナカタサトミの作品は、現代的な感性と言葉(アニムス、ジェンダー意識など)で再生していると言えよう。むしろ、詩史から言えば、箇条書き・覚え書きのような金子の「二十五歳」を、この「二十五歳」は、複層化した創作品に書き直すことで、時代を進めたと言えよう。

(渡辺信二 記)

 

 

 

  

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