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文士が、好きだーっ!!

辰年辰月辰刻生まれの、龍之介ったら龍之介!!

「本おや」店主・坂上友紀さんによる、めくるめく文士の世界。「かっこいい系文士」芥川龍之介の特筆すべき性質、今回はそのうち坂上さんが最も注目する「公平な目線」について。そしてさらに特筆すべきは芥川のそのネーミングセンス!(笑)

 

さておき、辰年辰月辰刻に生まれたために「龍之介」と名付けられた赤ちゃんは、両親ともに厄年の年に生まれた「大厄の子」であったがゆえ、風習に従い「捨て子」として育てられました。彼が1歳になる前に、実母が発狂(諸説理由はありながら、おそらく第一には自分の不手際から芥川にとっては長姉となるわが娘を死なせてしまったと思い込んでしまったから)。その後、母の兄・芥川道章の家に引き取られたのちに母も亡くなったため、龍之介が12歳になったときに正式に芥川家の養子となったのでした。

そして、この「芥川家」が代々「江戸城の御数寄屋坊主(筆者注:徳川幕府の職名。幕府殿中の茶事一切をつかさどる職務で、若年寄の管理下にあった。『芥川龍之介事典』より)」を勤めた家系で、旧家だが通俗的趣味や文人的趣味も強い、という独特な家風であったこと(行儀作法などにはかなり厳しいけれど、作家になることには大賛成!みたいな)が、芥川の多彩な作風(江戸っ子、古典、などの)にも影響を及ぼしている気配です。ちなみにもっと明確に言われていることには、実母や、長じてのちに友人となった宇野浩二の発狂などが芥川の後半生に暗い影を落とした、ということです。「歯車」などを読んでいると、あのルンルンした恋文時代の芥川が若干懐かしくなってきてしまいます。一方で、ルンルン時代から「歯車」や「或る阿呆の一生」時代まで、芥川は芥川だなぁと思う箇所も多々。


『芥川龍之介事典』(明治書院)。なんだかんだ手元に置いている本なのですが、芥川龍之介について何がしか気になることがあるとき、パパッと引いてはお役立ちの、なんとも頼もしい一冊です☆ ちなみに厚さは5センチだぜー。ところで函の芥川が着ているシャツの丸襟がやけにかわいらしいです!

「古典的」、「江戸っ子気質」の他にもまだいろいろとある(「宗教観」や「優しさ」など)芥川の作品群における性質ですが、中でももっとも色濃く感じることには「公平な目線」が挙げられるのではないかと思われます。そして、これこそが、芥川龍之介(の文学)を理解するにあたってもっとも重要なことだと思っています!

古典的な作品では「羅生門」然り、また「藪の中」や「報恩記」然りなのですが、たとえば「報恩記」では、ある男がある男の身代わりとなって死にます。結果だけから考えれば、「身代わりで死んだ人って可哀想」なのですが、実際読んでみて伝わるのは、「真実は人によって違う」ということ。また「どの立場から物事を見るかで善と悪ですら入れ替わる」というようなことです。「るしへる」や「或日の大石内蔵之助」なんかもそうで、読んでいると、「勧善懲悪」なんてものは本当はないのかも、と思ってしまう。そもそも絶対的なものなんてないのだという考えに、芥川の作品を読んでいると繰り返しぶち当たってしまうのです。

「公平な目線」ってなんなのだろうかと突き詰めて考えていけば、良く捉えると「多角的に物事を見られる」ことで、悪く捉えると「曖昧である」こと。たとえばAさんとBさんが交わした約束をAさんが破ってしまう。普通に考えてAさんが悪いので、Bさんは怒ってもいいところなのですが、そこでAさんが「実は体調不良だった」と言えば、相手の立場に立ったが最後、Bさんはもはや一方的に怒れない。……この場合、二人が友達同士で、なおかつ破ったのが待ち合わせ時間だったりすれば、一方的に怒らないBさんの「公平な目線」はプラスに働くのですが、もしこれが仕事の話で、破ったのが絶対に破ってはならない納期だったとしたら、Bさんがここでも「公平な目線」を発揮してしまうと、Aさんはよくても納期は過ぎてしまっているので、どこかで誰かが困る案件となります。

そんなふうに、「公平であること」が良いのか悪いのかは、正直ケースバイケースです。ここは言い切ってや!という場面だって生きているうちにはある。逆に「優しい嘘」という言葉があるように、言い切らないことや真実ではないことが良い結果を生み出すこともある。しかし、善悪の問題以前に、ただただ「芥川龍之介は、公平な見方をする人」だという事実がまずあるのです。で、そうあることが、晩年の「次から次へと愛人問題」にも繋がっているのだと思われるのですが、まずは、なぜ「公平な目線」を持つに至ったかについて、思うところを述べたいと思います!


芥川が公平なものの見方をするようになった理由のひとつには、明らかに「読書好き」が挙げられます。彼は、幼少期から亡くなるまで、ありえないレベルの読書家だったことで知られていて、『今昔物語集』をはじめとした日本の古典から、『水滸伝』などの中国文学、そしてアナトール・フランスにボードレールにメリメといったフランス文学や、エドガー・アラン・ポー、ビアスなどの幻想小説……などなどを、ジャンルも言語も問わずで、驚異的なスピードでひたすら読みまくっていたそうです。

少し話はそれますが、「どんなジャンルでも読む」にちょっと通ずるなぁ!と思うのが、「芥川にはジャンルレスで色んな友達がいた」という事実です。最終的には神経質が過ぎて病んでしまった芥川ですが、そういう人ってなかなか気難しくて友達付き合いを煩わしく思いそうな気がしつつも、芥川の場合においては晩年に至るまで、実に多様な友人たちに囲まれています。有名どころを挙げていくと、まずは師匠の夏目漱石。師匠なので友達ではないですが、初めて出会ってから漱石が亡くなるまでのあいだ交流は続き、それは約1年と決して長くはないものの、漱石との交流の影響は生涯、端々にあったと思われます。

そして学生時代の友人には、菊池寛、久米正雄が。詩人の友人には、室生犀星や萩原朔太郎が。画家の友人には小穴隆一が。そして弟子筋では、「龍門の四天王(含む、秀しげ子との三角関係になった南部修太郎!)」や堀辰雄。そして、「文藝的な、餘りに文藝的な」問題はあったものの、アニキ的存在としての谷崎潤一郎に、まさかの毒きのこ発言(関東大震災のあと、一緒にあたりを見回っていたときに、細身の芥川がヘルメット帽をかぶっていた姿がまるで「毒きのこ」の様だったと回想記に書いた)を言い放った川端康成や、兄弟子筋からはまさかの内田百閒、という意外性まで見せてくれます。

他にもたくさんの友人、知人がいるものの、うち、小穴隆一と堀辰雄に関しては、「僕の友だち二三人」という短い随筆の中にも名指しで取り上げているくらいに親しかったようです。小穴隆一は『夜来の花』以降、芥川の著書のほとんどの装幀を手掛けてもおり、自分亡きあとは「小穴を父と思え」と家族に言っていたくらいの大親友だったようで(作品にもしばしば登場)、堀については「東京人、坊ちゃん、詩人、本好き――それ等の點も僕と共通してゐる」と述べるくらい、気持ちのうえで親しかった模様です(しかし芥川亡きあと、堀は彼の作品についてトンデモナイ説をぶち上げたりもするのですが……!)。余談ですが、芥川から堀への最初の手紙には、自身、漱石に「鼻」を激奨されたときに贈られた「ずんずんお進みなさい」の言葉を書いてあげています。どうでもいい話ですが、芥川は堀辰雄に「辰っちゃんこ」というあだ名を付けていたみたいです。「たっちゃんこ」って……。

菊池とは最初こそそこまでではなかったものの、年を経るうちにどんどん仲良くなっていきました。室生犀星は芥川の「おかん」的存在だった気がします。さすが犀星! 個人的にいちばん意外に思ったのは内田百閒なのですが、芥川の婚礼の日にもたまたま家に遊びに来るくらいに、わりと頻繁に往来があったみたいです。百閒の『私の「漱石」と「龍之介」』を読んでいると、芥川が百閒の世話を焼いています。しかし百閒の「おかん」というより「おとん」っぽいです(実際のところは百閒のほうが3歳年長なのですが)。就職を斡旋してあげたり、作品をいち早く褒めてあげたり、手元に見本がなくなった自著『湖南の扇』を百閒にあげるためにわざわざ自ら本屋で買って、その場で署名して献本してあげたり、ワシっ!と手に掴んだ小銭を全部あげたりだとか……。そのわりに、百閒が好んでかぶっていた「山高帽子」が芥川的には妙に気がかりだったようで、帽子をかぶる百閒の顔を見ればいつでも「君はこはいよ、こはいよ」と言っていたそうなー(前述書『私の「漱石」と「龍之介」』による)。「やばいよ、やばいよ」みたいに言っていたんだろうかー。その決めゼリフ(?)のイントネーションがやたら気になる今日この頃です☆


内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』(筑摩書房)。ヘンな人がヘンな人とヘンな人について書いた本! ところでなんてことない話ではありながら、ここに書かれた「芥川は、煙草に火を點けるとき、指に挟んだ燐寸の函を、二三度振つて音をさせる癖があった」が妙に印象深いです。……だって、かっこいいしー!!

……と、長くなってしまいましたが、ジャンルレスに本を読みまくっていたように、芥川はその友人関係もまた多様を極めていた模様です。根底には面倒見の良い、これまた江戸っ子らしい気質があったのかもしれません。

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著者略歴

  1. 坂上友紀(さかうえ・ゆき)

    2010年から11年間、大阪で「本は人生のおやつです!!」という名の本屋をしておりましたが、兵庫県朝来市に移転して2022年の春に再オープンしました☆

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