そうして鱒二へのLOVEは、終わらないのであった!
「本おや」店主・坂上友紀さんによる、めくるめく文士の世界。いよいよ鱒二編のフィナーレへ!(まだ文士ひとり目笑)ぐわっと原点回帰して、デビュー作「山椒魚」に見え隠れしている鱒二文学の核心とは? |
さて、ではいよいよ「井伏鱒二の文学」の核心に迫っていきたく思います!!
井伏鱒二の文学。それは一言で言えば、「それでも生きていく文学」ではないでしょうか。
鱒二の作品の数々(特に小説)においては「白毛」のように、「ちょっとしたことから、結構ドエライ目に遭ってしまった!」といったような展開がままあり、人によっては「悲惨……!」と思うかもしれません。
たとえばデビュー作の「山椒魚」では、ちょっと食べすぎただけなのに……(ドエライ目に!)、ちょっといじわるしたばっかりに……(ドエライ目に!)遭うし、「珍品堂主人」でも、ちょっと欲をかいたばっかりに……(ドエライ目に!)遭ってしまいます。
結構酷い結末なわりに、淡々と綴られる文体によってそこまで悲しい気にもならず、むしろ「こういうことってあるかもな」……と妙に納得してしまう。そして読み終わった後に心の中(胃の腑のあたりかも)にドスンと響いてくる、なにがあろうと「それでも生きていく」という気持ち。これこそ、私が文学に求めるものであり、井伏鱒二の作品群を読んだときに強く感じるものでもあるのです!
たとえば「本日休診」にしても、この登場人物が助かったら(大概の人が)良いと思う話になるといったような場面でも、必ずしも助かるわけではない。話の展開として、読者の「助かってくれい!」という期待が反映されているとは言いがたく、ただただ、死ぬ人は死に、助かる人は助かる。
それは、少し野生動物の営みにも似ているように思います。まだ小さな草食動物が肉食動物に捕食されるとき、人の目で見れば「かわいい子どもの動物」は助かってほしい存在だけど、そんなこちらの気持ちなんてお構いなく、弱かったり運の悪かったりする動物は当然襲われて死んでいく。仮に我が子や連れ合いが食べられて(どんなに悲しくと)も、動物は自分が逃げることをやめないし、生きるための営みは続いていく。
……といったような大自然における淘汰に似たものが、都会の中ですらじっと見続けていればそこここにあるんだなぁ、と鱒二の文学を読めば感じられます。少しは希望的観測を述べたくなるのが「人間」だとして、それより「動物的な意識」(青柳氏いうところの「牛」の目線、動物の目線)でもって目をそらさずに見続けていれば、悲惨さよりも「何があろうとも、それでも生きていく」という意志のほうが、より強く伝わってくるのです。
そして、またもや「山椒魚」の話かーい!といった向きもあるかと思われますが、大きな大きな「鱒二山(ますじやま)」があるとして、その山を形作る森のひとつの中心には、「山椒魚」という名の一本の大木が聳え立っているため(他にも「さざなみ軍記」や「青ヶ島大概記」の大木を中心とした歴史モノの森や、「無心状」や「集金旅行」を中心としたユーモラスの森などもありますが……)、ぜひともここで「山椒魚」のあらすじをザッと紹介させていただきたく思います!
ある日、「山椒魚は悲しんだ。」(という一文からこの小説は始まる) なぜ悲しんだかというと、自分の棲家(すみか)であるところの岩屋から出れなくなっちゃったから! 日がな一日、岩屋の中に居続けて2年。ハッ!と気づけば、岩屋の入り口の大きさより、成長した自分の体のほうがデカなってるではないかーっ! 出れん! どうやっても出れん!! 「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」とうそぶきながらも特に考えつくこともなく、むしろ絶望しかなく、がーん……。となっていたところ、その岩屋にある夜、一ぴきの小蝦(こえび)がまぎれ込んでくる。
なんやかやあり、小蝦にすら失笑される山椒魚。泣いて神様にすがっても、出られないものは出られない。「ああ寒いほど独りぼっちだ!」と、悲嘆にくれているうちに、「山椒魚はよくない性質を帯びて来たらしかった」。岩屋の前を往来する蛙を羨ましく思っていたところに、その蛙がある日、小蝦と同じく岩屋にまぎれこんでくる。自分とは違い、その気になれば、岩屋の外に簡単に出られる蛙を前に、同じ目に遭わせてやる!と、自らの体でもって岩屋の入り口をふさいで出られないよういじわるをする山椒魚!
相手を同じ状況に置くことに暗い喜びを感じつつ、互いをバカにしながら口論し続けること1年。そしてもう1年(……長い!)。どちらも出られないまま、さすがに口論する元気もなくなってどんどん衰弱していく蛙。とうとう死にかけたところに、「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」と聞く山椒魚。蛙は「極めて遠慮がち」に「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」(で終)。
……という、なんともー!な感じの展開で、ちょっと(といっても2年)ボンヤリと岩屋に居座っていただけなのに移動の自由は奪われ、殺人(というか殺カエル)してまうわ、かといって状況は変わらないままだわで、いいとこナイといえばナイのです。この作品をハッピーエンドに持っていくとすれば、山椒魚が「蛙を閉じ込めて悪かったな」と思って逃がしてやるだとか、またなにがしかの理由でもって二匹とも岩屋から出れた!とか、やりようはいくらでもあるかと思うのですが、鱒二の文学においては、そうは問屋が卸さない! やってもたー、と思っても、覆水は盆に戻らないし、都合よくミラクルが起こったりもしない。ただ淡々と、成るべくものがそう成っていく過程が描かれるのです。
で、逆に言うと、ことさら残虐にするわけでもない(「山椒魚」においては、山椒魚の性質が閉じ込められすぎて途中から「よくないもの」になってしまうので、最後あたりは悪党めいた生き物になっておりますが……)。となると人というのは強かなもので、どういう環境においても生きようとするため、悲惨さを笑いに転換していく力を持っているのではないでしょうか。どういう状況にあっても生きる意志を失うわけではないときの、生命としての強さ。鱒二のユーモラス感は、生きることそのものに通じていると思います。
収録作品、そして河盛好蔵と亀井勝一郎による名解説と、どこを読んでも「はじめての鱒二本」としてイチオシの新潮文庫版『山椒魚』。何度も読み返したがゆえ、画像のカバー絵の『山椒魚』が個人的には一番しっくりくるのでした☆(いまはまた別のカバー絵です☆)
鱒二の文学について、一番伝えたいことは以上です。が、実はもうひとつ、第3回で少し触れましたが、どうしても再度しっかりと触れておかなければ終われないポイントがあります。それは、ファンとして言わずにはいられない、井伏鱒二のフォルム(見た目)のかわいさについてでありますっ!!
年を取れば取るほどかわいさ増し増し……!という感じで、フクフクっとした体つきもかわいらしければ、「じいさんなんだかばあさんなんだかわかんない!」と評されたそのお顔も、もはや赤子のかわいらしさ(男女を超越)に通じているとしか思えません!
中身も見た目も愛されキャラすぎやで……!と、若かりし頃の鱒二と菊池寛の「将棋エピソード」(向かい合い将棋を指す鱒二&寛。鱒二がうっかり下手を打ちそうになれば寛は「アーッ! アーッ!」と奇声を発し、思い直した鱒二が良い手を打ち直せば、寛は「君はなかなか見どころがあるぞ☆」と褒めていたなる、甘やかしすぎやん!なエピソード)もたいへん好みなわけですが、同時代の文士たちの、そして令和を生きる私のハートもばんばん撃ち抜きまくっちゃってる鱒二さん……っ☆★☆
好きだーっ!!!
最後にクールダウンもかねて、鱒二さんのかわいさが伝わるエピソードをさらにひとつ、ご紹介して終わりにしたいと思います☆
井伏鱒二と永井龍男の対談より(『井伏鱒二対談集』)
永井 牧野信一さんなどという人がいたしね、あなたの苛められた。
井伏 苛められた。ワアワア泣いた。どうして苛めるんだろう。
永井 あれは、あなたに対する愛情だと思う。
井伏 そうかな。
永井 愛情だと思う。お前の書くものは巧すぎるぞという嫉妬にしても。
井伏 安吾さんも苛められたね。〔中略〕
永井 ほんとうにあなたは苛められた、会うたびにね。
井伏 久保田さんが浅草に連れて行ったことがあるのだ、牧野さんと僕と河上徹太郎と。牧野さんが僕を苛める。久保田さんはなにも言えないの。…〔中略〕… 僕はたまりかねて夜中の三時ごろそこを飛び出してね。下駄箱から僕の履物を出して、魚河岸へ行く通りすがりのトラックに乗せてもらった。僕が泣いてるもんだから運転手が、おめえさん、まあこういうときは、どういう事情か知らんけれども、「松島」へでも行って飲めと…。
永井 徹夜で飲ませる家ね…。
井伏 そこで飲んだ。いいよもう牧野さんのことは…。
……苛められてワアワア泣いて、泣きながら飛び出してって、何気に運ちゃんになぐさめられちゃってるところが、好きだーっ!!! (クールダウンって、なんのことーっ!)
そうして鱒二へのLOVEは、終わらないのでありましたっ☆★☆
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