室生犀星、ここにあり!!
「本おや」店主・坂上友紀さんによる、めくるめく文士の世界。室生犀星編もいよいよラスト回(まだ文士二人目ですが笑)。最後は「生活」という視点から犀星の「文学」について分け入っていきます〜。 |
最後に、「乙女」で「変態」な犀星について語るとき、なんなら一番重要とも言える「生活(苦や、そこから生まれたハングリー精神)」について、紐解いていきたく思います!!
これまで語ってきたように、出自の段階からして幸せに対する飢餓感があったように見受けられる犀星は、金銭的な面でもまた、結構な苦労をしていました。養子先での幼少期には、言わずもがな自分の自由になるお金なんてなく、その後、上京して独り立ちしてからも、たとえばのちに親友となる萩原朔太郎との初対面の際には、朔太郎の実家の資金力をあてにして、ほぼ無一文で彼の住む前橋まで遊びに行き、何日も延々と泊まってしまう始末……。
朔太郎の親たちが、「もういい加減あのひと東京に帰ってくれへんやろか」(無論、関西弁ではない)と言い出すくらいには居座っていたみたいです。だって東京に帰ったところでド貧乏生活が待っているだけ。ならば、ここにいたーい! この時代にはよくあった話のようで……。時は大正、良い時代☆ 余談ですが、室生家では後年、萩原朔太郎のことを「ハギサク」というあだ名で呼んでいたそうです。キムタクどころかーっ!
閑話休題、兎にも角にも文学を目指し、二十代の初めで東京に出てきた犀星は、貧乏をしつつも北原白秋や萩原朔太郎らに絶賛され、詩人としてすぐに名を知られるような存在に。三十歳になる頃には、中央公論社(当時)の名編集として名高い滝田樗陰に認められ小説家としてもデビューしています。その後も続けざまに小説を発表(これまた余談ですが、小説2作目となる「性に目覚める頃」は、直接的すぎてなんとなく犀星っぽくないタイトルだなー、と思っていたら、元々は「発生」というタイトルであったところを樗陰が「これでは売れん!」と変えたそうです)。
相当書いている様子もあるのに、犀星に対してお金持ちである印象がまったくないのはなぜなのか。趣味というよりライフワーク的な作庭にお金をかけすぎたのか、それとも何年も新作を発表しなかった時期もあるので、それがゆえ……? 何にせよ、華々しい活動ではないどちらかと言えば細々とした文章の仕事だけで一家を養っていたのだとしたら、想像するだにつらいです。私らはなんぼうにもつらいでがす!(←第4回「鱒二の言語センスはすごいでがす!」をご参照ください☆)
さておき、そういった生活苦を舐めたからこそ、「市井もの」と呼ばれる「あにいもうと」(どえらい兄妹喧嘩が繰り広げられる話)や、王朝もののひとつではありながら衝撃的な出来事が起こっちゃう「舌を噛み切った女」に垣間見られる人間の凄まじさなんかを書けたのだと思います。これらの作品は、普通の生活をしている人が想像だけでは書けないやつです。で、そういう生活の苦悩やらなんやらが描かれている作品群の中で「ドエライすごいやつ」が、自伝的小説でもある「杏(あんず)っ子」なのでございます!!
最初から結論を言ってしまうようで恐縮ですが、新潮文庫版『杏っ子』の著者あとがきにおいて、犀星自らが書いていることがすべてを物語っています。(以下、引用文はすべて「杏っ子」から)
「私は生涯をつうじて私自身に中心を置かない作品は、時に、つめたい不測の存在としていた。そして私という作家はその全作品を通じて、自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも手近な一人の人間を見つづけて来たわけである。この過ちのない正じきな傲らない歩みは、今日に於てもそれががらに合い、それで宜かったのだと思ったのである」
人なんて、すぐに調子に乗る生き物だぜ―っ!と、自分を鑑み思うのです。だからこそ、「過ちのない正じきな傲らない歩み」を続けること、また自分はそうしてきたのだと言い切れる犀星にシビれます。このような決意でもって小説に臨むからこそ、経験した喜怒哀楽を余すところなく作品の中に生かすことができるのではないでしょうか。良いとこだけで書く人ではないのーっ! そこが偉大なのです。覗く姿を隠さないことに繋がる態度でもあります。そんな犀星の「物を書く姿勢」については、作中ある編集者の言葉として語られる、
「もっといい作品を見せてくださいよ、われわれの世界はただもう原稿だけがものを言う世界なんですから」
からも推察することができます。一切の妥協を許さず、言い訳もしない、文士としての犀星の真っ向勝負なあり方は、大変かっこいいです!
個人的に、犀星の「小説」で一番好き!となるとなんだかんだで「幼年時代」(「ゴリ」という闘犬が出てくる短篇も捨て難く好きなのですが)で、一番良い感じに変態性が文学に昇華している!と思うのは「蜜のあわれ」で、一番「文学」(私が思うところの文学。井伏鱒二の項で述べた「それでも生きていく」という姿勢を感じさせるもの)!と思うのが「杏っ子」です。この作品には、犀星の味わった苦労や飢餓感なんかのことごとくが詰め込まれています。そのうえ、時に乙女チックさも変態性も垣間見られ、それらがすべて合わさることで、強く揺るぎない「室生犀星の文学」が作り上げられているのだと感じます。
徹頭徹尾おすすめな犀星の長編小説は、「生活」を軸に「乙女」も「変態」も入っていて、なんともお得感満載な一冊ですっ☆ 素晴らしきかな、『杏っ子』!
前半は主に室生犀星であるところの主人公「平山平四郎」の話(「芥川龍之介」や「堀辰雄」も登場します)。後半は平四郎の娘「杏子(きょうこ)」(モデルは犀星の娘の朝子さん)目線で話は進みます。そもそもお金がないとか、そのうえさらに関東大震災が起こることで時代に翻弄されるといった前半部分にも苦労は大概にじみ出ているものの、とにかく杏子目線で語られる後半の凄まじさたるや……!
「(義父・平四郎のように)作家になる」と、杏子の結婚相手が何年ものあいだ働きもせず、来る日も来る日も朝から晩まで誰に求められているのでもない原稿をひたすら書き続けることで、どんどんと彼女の家庭が崩壊していくさまは本当にゾッとするほどです。そこまでしても作家になれるわけでもないシビアさ、そして平四郎の言う「作家としての苦悩」などは、杏子のように作家を家族に持つわけではない私ですら切実な問題と思ってしまったくらいに念入りに細かく描かれています。
わきあがる感情の襞をすべて明らかにしていくような丹念さとともに、生活の一場面、一場面が描写されるため、すごく長い年月のあいだに起こった出来事のような気がしたものの、物語において杏子が苦悩する期間は約4年。
……もっと長く感じたーっ! 少なくとも10年間くらいの出来事のようだった! ああーっ! 細かな描写も理由のひとつだろうけど、それ以上につらいことって長く感じるんだよね!!
身悶えたくなるくらいに「本当につらいこと」から全然目を背けない「杏っ子」の凄まじさです。読んでいてすごくつらくとも、近い気持ちを味わったことがあると「わかる」ので読んでしまう。どこの家庭でも歯車が少しずれてしまっただけで起こるかもしれない微々たる出来事から物事が破綻していくさまから目が離せません。
「生活(どちらかと言えば、「苦」よりの)」というものが詳細に書いてある「だけ」。……といえばだけなのですが、繊細な感性を持つ犀星が遺憾なくあるがままそのままを書くがゆえに、唯一無二の素晴らしい表現が生まれ、それが「文学」となっているのです。犀星が作品を生み出すにあたっての姿勢は、以下の平四郎の言葉からも推察されます。
「平四郎はいつもばかばかしいくらい一生懸命であった。嗤(わら)われて読まれるものさえ、一生懸命であった。何人も作家は一生懸命ならざるをえない、〔中略〕しかし無名の人が一生懸命に書いていると聞くたびに、ひやりとするものだ、平四郎自身のたかの知れた才能をしぼりつくした四十年くらいに、何が書けたというのか、そのこと自身がやはりひやりとして来るのである。他人へのひやりとしたものも、自分のひやりとしているものが、両方で或る処で打(ぶ)つかり合うのである」
そしてさらには、
「人間はその生涯にむだなことで半分はその時間を潰している。それらのむだ事をしていなければいつも本物に近づいて行けないことも併せて感じた」
とも述べています。半分は無駄なようでいて、しかしそれがなければ本物には成り得ない。矛盾するようで、そうでもありません。無駄だと思い込むことこそが足を引っ張るのであり、無駄も必要と信じるのならば、人生のすべてに意味はあり、そして「文学」と「生活」とを区切る必然性もそもそもないのです。というよりも、「生活」って「文学」の別の名なんだと感じます。上ばかり見ていても下ばかり見ていてもキリがなく、そうするのではなくて、どちらかに有るときにも別の場所を見ることができる力、ここではないどこかを想像する力を持ち得ることこそが、生活が生み出せる「文学」を形作るうえでの不可欠な要素だと思います。そして、犀星にはそれがある。
終わりに近い場面で、平四郎が杏子に「その意気で居れ、後はおれが引き受ける。不倖(ふこう)なんてものはお天気次第でどうにでもなるよ。人間は一生不倖であってたまるものか」と話しかけるシーンがあるのですが、この「一生不倖であってたまるものか」というハングリー精神が大事なのです。飢えるから、満たされたいという希望が生まれる。一番低いところにいる時にも、一番高い空の星を見上げることができる犀星のような人こそが、胸を打つ文学を世に放てるのだと思います。そして、なんならすべてのものを「美しさ」に寄せていく男とも言える……!
そんな犀星のことを、乙女系文士に分類するのか、ハングリー系か、いやいややっぱり変態系とするべきか……! といった楽しい悩みも尽きませんが、室生犀星の文学や人となりを紐解いていけば、乙女な時も変態な時ですら、いついかなる時にも人としての「かわいさ」がちらちら見えているような気がします。だからやっぱり「かわいい系文士」と分類したい!
しかし何系であろうとも、彼は間違いなく常に真剣勝負を行なっていた「文士」で間違いないのでありました☆
……好きだーっ☆★☆
最後となりますが、「杏っ子」の中でおかっぱの長さについて語るシーン、そして女の子が弁当を食べるときのシーンには、乙女性と変態性とを絶妙に併せ持つ犀星ならではの表現が煌めいておりますので、それを記して犀星の章は終わりにさせていただきたいと思います☆
「つまりおかっぱという奴は、眉とすれすれに刈られていてだね、何かの返事をするときに眉をあげると、眉がかくれてしまっておかっぱの下に、眼がぱっちりとじかに現れて来る、美事さがあるものだ。だから前髪が作る変化というものは微妙なものさ」
「娘達は愉しく弁当をひらいた。皆は箸の先にほんの少しずつ、ご飯をすくい上げ、それを二つの唇のそばに持ってゆくと、上唇と下唇とがおもむろにあいて、すくい上げた白い蝶が舞いこんでゆく、そのたびに舌のさきが見えた。娘達のご飯をたべているありさまが、こんなに美しいものであったかと、平四郎は巧みに箸の先につまみ上げたご飯が、あざやかに窓からの外光にきらきらするのを見た」
言わずもがな、仮にこのくだりがなかったとしても物語の本筋には大きく影響しないのに、匂い立つばかりの表現でもって全力で書かれているんだぜーっ!(泣く泣く割愛しましたが、ある一家の印象が「十五歳のお臀」に集約されるシーンでの余韻の残り方も実に秀逸です)
室生犀星、ここにあり!!