鱒二の言語センスはすごいでがす!
「本は人生のおやつです!!」店主・坂上友紀さんによる、めくるめく文士の世界。第4回は前回にひきつづき「かわいい系文士」の井伏鱒二! フルスピードで突き抜ける鱒二街道で見つけた、小説と詩と! |
ファーストコンタクトはおそらく「山椒魚」(この作品については、あとの回でじっくり説明します☆)でした。でも、それこそ教科書で読んだくらいに遥か昔の出来事で、当時はそこまで作品に衝撃が走ったりはしなかったと思います。子供の頃からとても井伏鱒二が好きだった、というわけではなく、長じてからたまたま『ものがたりのお菓子箱』という日本人作家15人の短篇アンソロジーに収録された「白毛(しらが)」を読んで、滅法気になる存在に……。
『川釣り』にも収録されている「白毛」という、随筆と小説の間のようなこの短篇が、一体どんな話なのかと言えば……。
戦後のある日、釣りに出掛けた井伏鱒二みたいな主人公。。途中チンピラのような若者二人に取っつかまり、因縁をつけられる。その二人も釣りに来ていたものの、どうやらテグスを忘れた模様。「ちょうどいい、このじいさんの白毛を抜いて、繋げてテグスにしようぜ!」ってなことで、二人に取っつかまった鱒二さんみたいな主人公。一本、二本……と毛を抜かれ、「これでテグス作るには十分だ!」と満足した若者たちに解放されて終わる、という話(ちなみに、締めの言葉がこれまた……! 余韻の残り方も絶妙な短篇です)。
……えーっ! ありえへん!!
チンピラっぽいのに釣りに来てるところからしてなんでやねんですが、「白毛抜くかー! そんな抜くかーっ! そしてそれを繋げたとて、絶対テグスにはなるまいよ……」と、誰もが思うでしょうし、そして抜かれた本数を数えている主人公も主人公……。と、その一幕を想像してつい笑ってしまったのですが、それとともに、ものすごい怖さも感じたのです。言わずもがな主人公だってその状況に甘んじていたわけではないのですが、如何せん若者二人にかたや老人一人。力では到底及ばず。
ということは、もしこの若者たちにその気があれば、殺されていたかもしれないのです! だって、何十本も毛を抜く時間って、相当です……。あわや一大事!となりそうな気配を十分はらんでいるのに、結果としてはユーモラス。なんだこの味わい!?と気になりだしたのが、ギアが入った最初だったかと思います。
ちなみに随筆っぽい雰囲気満載のこの短篇に限らず、鱒二の小説は、実は「私小説ではない」のです。主人公の雰囲気がいかにも「鱒二」な小説もあるので、私もずっとどっち寄りかと言われたらわりと「私小説寄り」の人だと思っていたのですが、たとえば永井龍男や河盛好蔵などとの対談の中で「小説は嘘を書くが、随筆としたときは事実を書くの」とか「僕は随筆はみな本当を書くんです。小説はうそを書くんです(笑)」と言われている通りで、実はフィクションの人なのでした☆
しかし、フィクションなのに「え、あるかも」という日常続きの非日常(「やっぱり、ないかも?」)が描かれているので、そういったありそでなさそなリアリティにハマってしまって、読むのをやめられへんのやろうなぁ……! とも強く思うわけですが、「多甚古村」「本日休診」「駅前旅館」「珍品堂主人」……などなど、どれを読んでも概ねそういう印象を受けるのでした。
本題に戻りまして、「白毛」に衝撃が走ったことにより、新潮文庫の『山椒魚』を改めて紐解いてみれば、解説も含め収録された小説のすべてに感銘を受け、「あれー、めちゃすごい!!」となり、勢い込んで井伏鱒二の作品について調べてみれば、幼少時の愛読書のひとつだった「ドリトル先生」シリーズの訳も、井伏鱒二ではないですか……っ!(下訳は石井桃子。ちなみに石井桃子と井伏鱒二はご近所さんだった模様です☆) 両頭動物「オシツオサレツ」ですよ! オシツオサレツ!! 名訳でしか、ナイッ!!
その後も改めて読み進むにつれ、井伏鱒二の言語センスに感銘を受けていくわけですが、知らず子供の頃にも井伏鱒二に触れていたんだなぁ……とびっくり。
ちなみに、小説にももちろん言語センスは明白に表れていて、ズラズラーッと並べるならば、
悲歎にくれているものを、いつまでもその状態に置いとくのは、よしわるしである。山椒魚はよくない性質を帯びて来たらしかった。
(「山椒魚」より)
↑「よしわるし」がひらがなであること。また、悪者になった、と直接的に書くのではなく、「よくない性質を帯びて来たらしかった」と書くことによって、優しさや、読者に想像させる幅広さなどを二重三重に感じます。
初夏の水や温度は、岩屋の囚人達をして鉱物から生物に蘇らせた。
(同じく「山椒魚」より)
↑岩屋の中でじっと動かなかった山椒魚と蛙がまたぞろ活動を再開したことを表す一文なのですが、「鉱物から生物に」という言葉がすごい! 動かない爬虫類はたしかにちょっと鉱物っぽいのでありました☆
私らはなんぼうにもつらいでがす!
(「朽助のいる谷間」より)
↑「〇〇でがす!」は、なんなら『怪物くん』でしか知らないくらいに私にとっては馴染みのない方言でありながら、田舎者の切々とした辛さと、でもなんだか笑える空気感ただよう調子のセリフです。鱒二の小説における登場人物たちのセリフは、それぞれ本当にキャラ立ちが見事です。また、この「つらいでがす!」に限らず、その前後に同じ言葉が何回か出てくる(お笑いでいう、いわゆるテンドン的な)畳みかけのリズムを伴った面白さがあります。第3回で取り上げた、「春さん蛸のぶつ切りをくれえ/それも塩でくれえ」の「くれえ×2」のような。
そしてそんな中、ついに「ハナニアラシノタトヘモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ」でギアはトップに……。どころか、完全に「鱒二落ち」してしまったわけなのでございますっ!!!
ちなみに井伏鱒二その人は、「詩人」と呼ばれるのを一番うれしく思われていたようで、数こそ多くはないものの(『井伏鱒二全詩集』という薄い文庫本に、発表した詩集のすべてが収録されるくらいの量)、どれも「ヨッ! 名詩集!」と一声掛けたくなるような詩集ばかり☆
神保光太郎さん(鱒二と同時期に徴用を受けて、シンガポールに滞在。同地で、昭南日本学園という現地の人向けの日本語学校を主催していた詩人でドイツ文学者)からの「井伏さんは、詩も小説も、自分の作品として、愛する点では同じですか」という質問にも「それは詩のほうが、思い出して気持がいい。小説は、やにっこいね」なんて答えているくらい。
鱒二的には「嘘を書く」と言うがゆえに小説は「やにっこく」なるのかしらん!?と推し量りつつ、一方、詩のほうが思い出して気持ちがいいというのは、なにもご本人に限った話ではなく……。愛読している私もいくつかの詩は暗唱できるくらい何度読んでも素敵に良いし、また何度でも読みたくなってしまう素晴らしさなのでありました☆
かつて天五中崎商店街にあった古本屋・青空書房さんがご存命中には、月に何度か店に立ち寄り、よく文学の話をさせていただいた(短くて数時間、長くて半日強!)ものですが、井伏鱒二に関する話で一番盛り上がったのも、やはり詩集についてでした。お互いに若かりし頃「ハナニアラシノ……」という言葉をまず知って、「これは一体、なんの詩の一節なんだーっ?!」と探して『厄除け詩集』に辿り着いた、という共通の経験があったから。ちなみに、その話をしたとき、私は30代で青空書房さんは90代。井伏鱒二の文学が、いかに長く愛読されているかという証でもあります!
余談ですが、『井伏鱒二全詩集』を青空書房さんに差し上げたら、その次にお会いしたときに今度は『厄除け詩集』をいただいた(もちろん今も持ってる!)のも、本当に良き思い出となっております☆
青空書房さんに差し上げたのと同じ判型の『井伏鱒二全詩集』(岩波文庫)と、青空書房さんにいただいた『厄除け詩集』(講談社文芸文庫)がまさにこちら!
と、話が脱線してしまいましたが、井伏鱒二の詩集の中で一番有名だと思われる、「厄除けのお守りのように持っていてほしい」という気持ちから書かれた『厄除け詩集』。この詩集には漢の于武陵の「勧酒」を日本語に訳した(やはり別に、下訳した人はいますが)詩も収録されています。
四行のみの短い詩ですが、それこそ
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
……なのですっ!
こんなに心の底から共感する言葉ってそうそうありません。「サヨナラ」ダケガ人生ダ!!
人は、生まれたからには当然死ぬわけで、「サヨナラ」するために出会っているといっても過言ではなく……。どんなに仲が良くても悪くても、否応なく誰もに絶対来る「サヨナラ」までの時間を、いかにして過ごすのか。サヨナラダケガ「人生」ダという言葉には、別れを含んだ生きる意味のようなものが結実している気がして、口にするたび、別れがいかに悲しくとも、それでも人は生きていくんだ……と強い気持ちをもらいます。たった4行の中でこれだけのことを思わせてくれるような詩を書かれる鱒二さんのことが、大好きだーっ!!