第十七回 〈遊び〉の形而上学(前半)――無限定の可能性
無限定の可能性
私たちの〈遊び〉の哲学は〈遊び〉の形而上学(メタフィジックス)である。なぜなら、まず私たちが探るべきは、遊びの形相因でなく、〈遊び〉の質料因だからである[9]。だが、私たちを驚かせるのは、〈子ども〉にしか遊べない、たんなる実現の〈遊び〉である。つまり、――大人は、遊ぶときでさえ、何か理由をつけたり、つい後先を考えたりしてしまうが、――〈子ども〉は、何の原因も目的もなしに、いきなり〈遊び〉始め、ひたすら〈遊び〉続ける。というのも、〈子ども〉はただ〈遊び〉たいのである。これが〈遊び〉が自己目的的であることの形而上学的な意味である。
とはいえ、ただ実現するだけの〈遊び〉に質料因なんてあるのだろうか。たとえば、クリスマスリースの質料因がヒバの葉やシナモンスティックなどの材料であるように、たんなる実現の〈遊び〉にも何か素材があるのだろうか。おそらく、どんな遊びにも、それが実現されるのなら、何らかの質料因はある。だが、それは一体どんなものなのか。実現の〈遊び〉の質料因とは何なのだろうか。
さて、既存の遊び研究には、――〈遊び〉の質料因の探求は見当たらないが、――遊びの素材(の質)に着目するものはもちろんある。たとえば、「類似した形状を示すが、異なる“質”をもつ素材を子どもに提示することで、遊びに変化が生じた」[10]、という報告があるが、これはまさに遊びの素材の研究であると言える。というのも、その研究に用いられたウレタンスティックと木の枝は、形相はほとんど同じであるが、素材がまったく異なるからである[11]。たしかに、遊びの素材が異なるなら、遊び自体もまた変わるだろう。というのも、素材つまり質料は(四)原因の一つだからである。だが、こうした研究は、遊びの素材(の差異と影響)を主題としても、〈遊び〉の質料因を追求するものではない。つまり、そこでは、遊びの素材(の差異)は、たとえばウレタンと木のように、すでに明らかであって、むしろ研究に取り入れられる。そして、その上で素材(の差異)の遊びへの影響が研究されるのである。だが、私たちにとっては〈遊び〉の質料因こそが探求されなければならない。それは私たちにとってまったく明らかでなく、それ自体が私たちの追い求めるものである。
とはいえ、遊びの素材が変わるなら、遊び自体もまた変わる、とはたしかに言える。すると、〈遊び〉の質料因も〈遊び〉によって異なる、としか言えないのだろうか。なるほど、異なる遊びをするのに異なる素材が要ることは、先行する遊び研究に訴えるまでもなく、身近な遊びを振り返るだけで十分に明らかである。たとえば、テレビゲームをするなら、ゲーム機本体とゲームのソフトがなければならないが、もちろん、異なるゲームで遊ぶには、異なるソフトに変えなければならないし、そもそも本体から変える必要があるかもしれない。また、公園に置かれた様々な遊具は明らかに異なる遊びを示唆している。滑り台は(登ることもできるが)滑って遊ぶのに必要であるし、逆上がりをするなら(ジャングルジムでもできるかもしれないが)やはり鉄棒が最適である。もちろん遊具がなくても遊ぶことはできる。たとえば、遊具のない公園でも、鬼ごっこはできるだろうし、日向ぼっこもできるかもしれない。だが、逃げたら追って(追ったら逃げて)くれる人がいなければ、また、十分に走り回れる広さがなければ、鬼ごっこをすることはできないし、日向ぼっこをするにも、暖かい陽の光がなければならない。むろん一人でも日向ぼっこは楽しめる。しかし、さらに陽を浴びる体(の少なくとも一部)がなければならない。さもなければ、陽だまりの暖かさは感じられないからである。したがって、どんな遊びであれ、それが実現されるには、それに見合った質料因がなければならない、と言える。もちろん互いに代替できる素材もたくさんある。だが、素材が異なれば、遊びもまた異なる。だから、どんな遊びにもそれに固有の質料因があることになる。
では、私たちはここで〈遊び〉の質料因をどのように考えるべきなのか。そもそも〈遊び〉の質料因なんて本当にあるのだろうか。なるほど、どんな物であれ、そもそも、形がないのであれば、見られることさえありえない。つまり、私たちがそれを目で見つけようとするのなら、質料にさえ形相がなければならない。たとえば、クリスマスリースの質料因としてシナモンスティックが見つけられるのは、そこにシナモンスティックの形相因が見えるからである。あるいは、それが鉄棒の形をしていないのであれば、逆上がりをして遊ぶには鉄棒という物が必要であるとは言えないはずである。ようするに、それが何であるか、わかるときには、質料にも形相がなければならない。何の形もない物は私たちには見えないからである。
また、形相がある質料については、それ自体の質料因がさらに求められる。なぜなら、形がある物は、それ自体が独立した特定の個物であるので、それ自体の(四)原因を問えるからである。たとえば、シナモンスティックは、クリスマスリースの素材にもなるが、それ自体が独特な風味のスパイスでもある。というのも、それ自体にまさに(そのような形に丸めて整えられた)シナモンスティックの形相があるからである。では、このシナモンスティックの――形相因が重ねて棒状に丸められた形であるとして――質料因は何なのか。それはもちろんシナモンの木から剝がされた樹皮である。――なお、その作用因と目的因は、たとえば、それを形成し乾燥させる加工(者)と、飲み物や食べ物への香り付け(あるいはクリスマスリースの装飾)である、と言える。――だが、それにまたシナモンの樹皮という形相があることは明らかである。そして、この樹皮にもまた明らかに(四)原因を求めることができる。すると、質料と形相の関係は(私たちに見えるところなら)どこにでも見いだされることになる。どんな質料因にも、それが何かである(とわかる)のなら、それ自体に固有の形相因と質料因があるからである[12]。つまり、アリストテレスにとっては、質料と形相の区分は、絶対的なものでなく、相対的なものなのである[13]。
たしかに、遊びにおいても、ある一つの(形相をもった)遊びが、また別の(形相をもった)遊びの質料になることはある。というのも、たとえば折り紙や「スーパーマリオメーカー」のように、何かを作ることはそれ自体が一つの遊びになるが、私たちは作ったものを使ってさらに別様に遊べるからである。同じことは実現の〈遊び〉についても言えるだろうか。もしかしたら、そうなることもあるかもしれない。たとえば、〈子ども〉に砂を入れられてしまったバケツの水は、――奇しくも私が目論んだように、――まさに泥遊びの素材になっていたかもしれない[14]。だが、たんなる実現の〈遊び〉が他の遊びのために為されるはずはない。〈子ども〉はそれ自体のためにのみ〈遊び〉を実現させるからである。――だから、そんなことを目論むのはやはり大人である。――したがって、実現の〈遊び〉は少なくとも他の遊びの質料になるために為されるのではない。そうなることもあるだろうが、少なくとも〈子ども〉はそうやって遊んでいない。〈子ども〉はまさに遊んでいる〈遊び〉のために遊んでいるのである。
また、実現の〈遊び〉は他の遊びの素材になるかもしれないが、そもそも実現の〈遊び〉には何か特定の素材が要るわけではない。このことは実現の〈遊び〉に共通の構造がないことと同様である。だが、どうして実現の〈遊び〉には決まった質料や形相がいらないのか。それは、もちろん、およそどんなことであれ、実現しうるし、〈遊び〉になりうるからである[15]。もしも、西村が『遊びの現象学』で推察するように、遊びが自己目的的であるということが、遊びは遊びの型の実現を目指しているということであるのなら[16]、たしかに諸々の遊びには何らかの共通の型がなければならないことになる。というのは、さもなければ、そもそも遊びと見なされないからである。だが、どんなことであれ、それ自体の実現のみを目指しているのなら、それこそが自己目的的であるということに他ならない。そして、それ以外には何の原因も目的もなく、ただそれ自体の実現のためにのみ為されることは、まさに〈遊び〉で為される(としか言えない)のである。
だから、〈子ども〉にとっては本当にどんなことであれ〈遊び〉になりうる。たんなる実現の〈遊び〉は、どんな物がどんな形で使われようと、原因も目的もなしに、ただそれ自体が〈遊び〉で実現されるのである。たとえば、〈子ども〉が、切ってもらった爪を一息でティッシュの上から浮き飛ばしてしまったとき、あるいは、「マインクラフト」で辺りをひたすらに燃やし続けていたとき、そこには――〈子ども〉以外には――何の共通の素材も構造もありそうにない。にもかかわらず、それらはどちらもやはり〈遊び〉なのである。というのは、それらがやはりたんに実現されただけだからである。すなわち、〈子ども〉はたんに〈遊び〉たかっただけなのである。それゆえに、〈子ども〉にとっては何であれ〈遊び〉になるのだが、すべての実現の〈遊び〉に何か特定の質料と形相が共通するわけではない[17]。どんな物であっても、どんな形であっても、すなわち、どんなことであれ、共通の質料も形相もなしに、〈遊び〉は実現されうるのである。
ところで、実現の〈遊び〉の質料因は、――あるいは、そもそも他の遊びの質料因も、――可感的な物であるとはかぎらない。というのも、どんなことでも〈遊び〉になるのなら、たとえば何かを考えるだけでも〈遊び〉になりうるからである。もちろん、その何かが、空想的に思考されるだけでなく、感覚的に経験されるには、可感的な質料が必要になる。しかし、たんなる空想であろうと、空想すらしないのではなく、現に空想するのであれば、まさに空想の実現に必要な質料があることになる。だが、それは、――ある脳状態の実現でなく、――ある空想の実現であるのだから、――物質的なものでなく、――思惟的なものでなければならない[18]。つまり、現に何かを考えたり思ったりするときには、むしろ思惟的な質料因が必要になる。そして、たんなる思考の実現が〈遊び〉になるのなら、実現の〈遊び〉の質料因も物質的なものであるとはかぎらない。ただ空想するだけの〈遊び〉の質料因はむしろ思惟的でなければならないからである。
だが、何であれ〈遊び〉になるとはいえ、――何でもないのであれば〈遊び〉でもないのだから、――もちろんそれは何かでなければならない。すなわち、実現の〈遊び〉は、どんな質料でもどんな形相でもよいのだが、必ず何らかの質料と形相を備えなければならない。もちろん、何らかの質料だけがあっても、――つまり何らかの形相がなければ、――私たちにはそれは現象しえない。というのも、形があるものしか私たちには見えないからである。つまり、それがどのような質料であるのかがわかるのなら、そこにはそのような形相が必ずあることになる。しかし、アリストテレスによれば、「質料は、それ自らは、不可認識的である」[19]。形相のない質料、すなわち純粋な質料は、私たちには現象しないのである。
では、何らかの形相だけがあったら、どうだろうか。なるほど、一見すると、何らかの形相があるのなら、それが何であるのかは、たやすくわかりそうである。だが、私たちにとっては、何かがわかるということは、現にそれを考えることなしにはありえないのではないか。しかし、そうであるとすれば、もちろん思惟的な質料が伴われることになる。(あるいは、何かが見てわかるのであれば、もちろん感覚的な質料が伴われることになる。)たとえば、私たちは、現に何かを思い出すことなしには、何を覚えているのかを知ることはできない。すなわち、私たちの記憶は実際に想起されることで遡及的にそもそも記憶されていたことになる。さもなければ、そもそも何が記憶されているのかを――換言すれば何が想起されうるのかを――知ることは私たちにはできない。たしかに私たちの記憶には様々なことが保存されているはずである。しかし、何が記憶されているのかを記憶のまま知ることは、私たちには(なぜか)できないのである。また、だからといって、私たちは(想起しうる)すべてを一度に想起することもできない。おそらく、もしそんなことができるのなら、そもそも想起と記憶の区別がなくなって、それゆえに現に思い出すということも意味を成さなくなる。だが、私たちは、その都度あることが思い出せるのであって、――あるいは、いくつかのことは同時に思い出せるかもしれないが、――あらゆることが同時に思い出せるわけではない。もしかしたら、神さまなら、そんなこともできるかもしれない。というのも、神さまはそのままですべてを知っているからである。つまり、神さまは、何かを知るために、さらに(思惟的な質料を伴って)現に考えることはなく、それゆえに現に考えることと考えうることの区別もない。神さまは直に何でも知っているのである。だから、神さまなら、質料のない形相、すなわち純粋な形相をもって、何でも直に知ることができる[20]。しかし、私たちにはもちろんそれは不可能である。
したがって、私たちにとって何かであるためには、何らかの形相と何らかの質料(の結合)がなければならない。たしかに、何らかの形がなければ、私たちにはそれが見えない。しかし、どんな形であれ、そもそも、それが現れ出るところがなければ、(すべてを直に知っている神さま以外には)現に生じようがない。アリストテレスによれば、たとえば、青銅の球が作られるとき、球という形相が生じるのは、――現象界を超越したイデア界からではなく、――青銅という質料からである[21]。だから、私たちに現に生じうる何かは、すべて形相と質料の結合体である[22]。(あるいは、形相と質料の結合体しか現に生じていない。)だが、一体これはどういうことなのか。もしかしたら神さまが形相と質料をくっつけているのだろうか。いや、彼の『形而上学』第七巻第八章には、そのためには「…質料のうちに形相を原因するものがあればそれだけで十分である」[23]、と書かれている。これはつまり、形相を現に生じさせる力がそもそも質料の内に秘められている、ということである。
さて、それゆえに実現の〈遊び〉も形相と質料の結合体でなければならないことになる。というのも、私たちは現に〈子ども〉の実現の〈遊び〉に驚いてしまっているからだ。つまり、それは、現に〈子ども〉に為されているし、大人にも現に見えてしまっている。だから、たんなる実現の〈遊び〉にも、何でもよいが、何らかの形相と何らかの質料(の結合)がなければならない。たしかに、何らかの形相がなければ、そもそも、何かわからないし、したがって驚けない。だが、形相それ自体は、神のみが知るのであって、私たちには生じえない[24]。そのため、私たちに現に何かが生じるには、何らかの質料もなければならない。もちろん、質料それ自体について、私たちが何か言えるわけではない[25]。「それ自らは、不可認識的である」からだ。しかし、もしそれがなければ、そもそも形相の現れ出るところがないのである。つまり、それがなければ、現に見えることが、そして何かであることが、そもそもありえない。だが、それはそもそも何なのか。そんなもの本当にあるのだろうか。
ここでも、アリストテレスに倣うなら、それはまさにたんなる可能性でしかないことになる。というのも、彼によれば、〈遊び〉であれ何であれ、私たちに現に生じることは、「…このように存在することも存在しないこともともに可能なものであり、この可能性はこれらの各々〔のこと〕に内在する質料にほかならない」[26]からである。たとえば、――シナモンスティックよりもわかりやすい例で言えば、――実際に住居になっている木材は、そもそも住居になることが可能であったのでなければならないが、もちろん、住居にならずに、家具になったり遊具になったりすることも可能であったのでなければならない。たしかに可能性それ自体は目に見えるわけではない。現に住居になったのなら、そこには住居の形しか見えないし、現に木材であったのなら、そこには木材の形しか見えなかったのだから、どこかに家具の形や遊具の形に現れ出ているわけではない。なぜなら、実現した形相しか目には映らないからである。しかし、それはもちろん見える前から質料に秘められていたのでなければならない。というのは、およそ可能なことしか実現しないからである。だが、実現しない可能なことももちろんある。だから、そこには、それ以外の実現していない形相も、つまり可能なだけの形相もまた、見えずとも秘められていなければならない。何であれ、何かになった質料は、そうなることはもちろん可能であったのだが、それ以外の何かになることもまた可能であったのである。
とはいえ、特定の何かでしかありえないことは、実現の〈遊び〉の質料因ではありえない。というのも、どんな形であれ、どんな物であれ、〈遊び〉は実現できるからである。そもそも、たんなる実現の〈遊び〉には、何か決まった構造や素材が要求されるわけではない。そうではなくて、〈子ども〉は、どんな形でも、どんな物でも、自在に遊ぶことができる。だから、〈子ども〉にとっては本当に何でも〈遊び〉になるのである。
すると、たんなる実現の〈遊び〉の質料因は、まさに純粋な質料であるのかもしれない。もちろん、これがどのようなものなのか、私たちにはまったくわからない。それは、何であるとは言えないもの、つまり何の形相も伴っていないものだからである。だが、私たちの〈遊び〉の質料因の探求は形而上学的なものであった。つまり、私たちはそもそも形を超えたところでそれを探していた。だとすれば、それが何であるとは、言えるはずもないし、むしろ言えなくてよい。私たちはそもそも形相のない質料を求めていたのである。また、純粋な質料は、それが何であるかは言えないが、けっして何でもありえないわけではない。たしかに純粋な質料には何か特定の形相があるわけではない。しかし、質料こそが可能性であるのなら、純粋な可能性としての質料にはむしろ何の形相でもありうるのでなければならない。さもなければ、そもそも何の形相も実現しえないからである。純粋な質料が何であるか言えないのは、それが、何でもないからではなく、何でもありうるからなのである。
もちろん、ただ実現するだけの〈遊び〉にも、それぞれの〈遊び〉に固有の形相をもった質料がある、とは言える。たとえば、切った爪を吹き飛ばす〈遊び〉は切った爪がなければできないし、マカロニで牛乳を飲む〈遊び〉にはマカロニと牛乳が不可欠である。だが、「個々の事物にはそれぞれに最も近い固有の或る質料がある」[27]とはいえ、固有(の形相がある)質料はやはり実現の〈遊び〉の質料因にはなりえない。というのも、固有の(形相をもつ)質料の(他の形相をもつ)可能性は限られているからである。たとえば、住居になった木材には、住居になる可能性だけでなく、家具や遊具になる可能性もあったのだが、人間や太陽になる可能性はまずない。あるいは、マカロニは、グラタンにもなるし、ストローにもなるが、まさか「マインクラフト」や「スーパーマリオメーカー」にはなりえない。しかし、〈子ども〉が本当に何でも〈遊び〉にするのなら、〈子ども〉の実現の〈遊び〉には、あらゆる(形相をもつ)可能性が秘められていなければならない。すなわち、それは限定された(形相をもつ)可能性であってはならない。だから、実現の〈遊び〉の質料因とは、まさに無限定の可能性なのである。〈遊び〉の可能性は文字通りに無限なのである。
さて、純粋な質料(ないし第一質料)がアリストテレス自身にとって無限定の可能性である(と解釈すべき)かどうかは、正直なところ私の手に余る問題である。しかし、私たちが――彼の(解釈)研究でなく――〈遊び〉の質料因の探求をしていることに甘えて言えば、たんなる実現の〈遊び〉の質料因にふさわしいのは、形相のない質料、つまり純粋な質料なのである。そして、彼自身の洞察(の解釈)がどうであろうと、純粋な質料(ないし第一質料)は、あらゆることのたんなる可能性として、まさに無限定なものに類比的なのである[28]。つまり、それは、現に何かであるわけではないが、どんな何かでもありうるものである。それはあらゆる何かの可能性である。これが〈実現〉の遊びの質料因である。なぜなら、〈子ども〉は本当に何でも〈遊び〉にできるからである。何でも〈遊び〉で実現してしまうからである。〈子ども〉には本当に無限の可能性が広がっている。これは、実現の〈遊び〉の質料因が無限定の可能性である、ということなのである。
[9] たとえば、プラトンのイデア論のように、遊びの形相因が、私たちに現れる形を超えて、求められるなら、それもまた遊びの形而上学であるかもしれない。しかし、前回までに確認してきたように、私たちの目に映る諸々の遊び現象の内に遊びの形相因を見つけるのは、遊びの形而上学でなく、遊びの現象学である。
[10] 中村俊之「異なる“質”をもつ素材が子どもの遊びに及ぼす影響」『和歌山信愛大学教育学部紀要』第6巻.和歌山信愛大学教育学部.2025年3月20日,4頁.
[11] 中村俊之「異なる“質”をもつ素材が子どもの遊びに及ぼす影響」『和歌山信愛大学教育学部紀要』第6巻.和歌山信愛大学教育学部.2025年3月20日,2頁.
[12] たとえば、青銅の球の質料はもちろん青銅であるが、その青銅にもそれ自体の形相と質料がある、ということである(Cf. アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,259頁)。
[13] Cf. 小坂国継「アリストテレスの形而上学」『研究紀要.一般教養・外国語・保健体育』第79号.日本大学経済学部編,2015年10月,3頁.)
[14] 〈子ども〉との砂場でのエピソードについては第三回の連載を参照のこと。
[15] もちろん「およそどんなこと」の中に論理的に不可能なことまで入れる必要はないだろうが、倫理的に望ましくないことや規範的に禁じられていることは、たしかにそこに含まれるだろうし、もしかしたら、科学的にありえないことでさえ、そこに入るのかもしれない。
[16] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,319頁.
[17] もしかしたら、まさに実現するということが共通しているのではないか、と考えられるかもしれない。しかし、実現するということは、――どんな質料であれ、どんな形相であれ、実現しうるのだから、――何か特定の質料ないし形相をもつことではない。
[18] アリストテレスによれば、「質料のうちにも感覚的なそれと思惟的なそれとがあって、感覚的な質料というのは、たとえば青銅とか木材とかその他あらゆる運動変化しうる質料のことであり、思惟的な質料というのは、感覚的なもののうちに、ではあるがそれ自らは感覚的なものとしてではなしに、内在しているもの、たとえば数学的対象などである」(アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,265頁)ので、たとえば、感覚的な物質である、青銅や木材などで作られた円だけでなく、「数学者の思惟している円」(アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,265頁)もまた、質料と形相の結合体なのである。
[19] アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,265頁.
[20] Cf. アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,153, 163-164頁.
[21] Cf. アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,253頁.
[22] アリストテレスによれば、純粋な質料や純粋な形相が生成することはなく、生成するのは質料と形相の結合した実体である(アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,253-255頁)。
[23] アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,256頁
[24] アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,254頁.
[25] アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,231-232頁.
[26] アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,248頁.
[27] アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,305頁.
[28] Cf. 高橋久一郎「アリストテレスの「第一質料」論―質料論序説―」『哲学』1987 巻37 号.日本哲学会.1987 年5月1日,121頁.


