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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第十八回 〈遊び〉の形而上学――可能性の実現

可能性の実現

 私たちの身の回りには、なぜか具体的な何かだけが生じている。何でもないものなんて、どこにも見当たらないし、きっと像を結ぶ(イメージする)ことさえできない。私たちは、感覚するなら、何かを感覚するし、想像するなら、何かを想像するからである。すると、もしかしたら、無限定の可能性なんて、まさに形而上学的な戯言にしか聞こえないかもしれない。というのも、それは何かである以前の可能性でしかなく、それ自体は何でもないからである。だが、それは、現に何かであるわけではないが、あらゆる何かでありうるのでなければならない。なぜなら、それは、限定された何かの可能性ではなく、無限定の可能性だからである。

 もちろん、どんなことであれ、現に何かが生じるのなら、それはそもそも可能であったのでなければならない。つまり、それが〈遊び〉でなくとも、何かが実現されるなら、その可能性はその実現に先立ってなくてはならない[29]。さもなければ、それは、不可能であり、したがって現実にならないからである。だが、〈遊び〉の可能性は無限定でなければならない。なぜなら、〈子ども〉の自己目的的な実現はすべて〈遊び〉になるからである。すなわち、原因も目的もない実現は、まさに〈遊び〉でしかないが、〈子ども〉は、どんなことであれ、原因も目的もなしに、たんに実現できるのである。それゆえに、〈遊び〉の質料因は無限定の可能性なのである。これが〈子ども〉や〈遊び〉に無限の可能性を感じることの形而上学的な意味である[30]。〈子ども〉には文字通りに無限の〈遊び〉の可能性が広がっているのである。

 しかしながら、私たち大人は〈子ども〉の可能性に驚くわけではない。〈子ども〉に広がる〈遊び〉の可能性は、――無限定の可能性は何でもないのだから、――私たちには見えないからである[31]。(とはいえ、――無限定の可能性は何でもありうるのだから、――〈子ども〉には無限定の〈遊び〉の可能性が広がっているのである。)そうではなくて、私たち大人は〈子ども〉が実現する〈遊び〉に驚く。〈子ども〉がただ実現するだけの〈遊び〉に大人は驚かされるのである。だが、〈子ども〉はいかにして〈遊び〉を実現するのだろうか。そもそも、どうしたら可能なことが現実になるのだろうか。

 たとえば、アリストテレスによれば、――(質料のない)純粋な形相や(形相のない)純粋な質料はどちらもそれ自体で生じることはなく[32]、――私たちに現に生じることには、形相と質料(の結合)がなければならないのであった。というのも、そもそも、質料がなければ、何かでありうることがなくなってしまうのだが、たしかに、形相がなければ、現に何かであることがなくなってしまうからである。だが、質料が、何かでありうるという意味で可能なものにすぎず、それが現実に何かであるときには、その形相に与らなくてはならないのであれば[33]、どうして、何かが実現するのに、質料が必要なのだろうか。現に何かであるためには、形相だけで十分ではないだろうか。

 もちろん、アリストテレスの神にとっては、(質料のない)純粋な形相だけがあれば、すべては現実に何かであることになる。というのは、アリストテレスによれば、形相こそが現実態であるからである[34]。そして、神(の理性)は、――「質料なしに存在するもの」[35]であるがゆえに、転化することなく永遠的に[36]、――現実態である形相を(受け入れ)「現に自ら所有している」[37]からである。すると、たしかに、そのような神さまにとっては、すべてが現に何かであるだけなのかもしれない。しかし、そのような神業はもちろん神さまにしかできない。私たち(の理性)には、神さまのように、あらゆる形相のみを直接(受け入れ)捉えることはできない。というのも、私たちが現に何かを思惟するなら、そのときには思惟的な質料が必要だからである[38]。(また、前回の連載に記憶と想起の比喩を用いて書いたように、私たちは、ある何かを考えることしかできず、あらゆる何かを考えることはできないからである。)すなわち、私たちに現に何かの思考が生じるのは、その何かの形相だけでなく、思惟的な質料(の結合)もあるからなのである。

 なぜか、私たちの世界は、現に何かであるだけでなく、何かでありうる世界である。もちろん世界には現に何かであることがたくさんある。たとえば、あなたは現に今この文章を読んでいるし、2025年12月の南極の平均気温は現に-1.8℃であった[39]。しかし、現にそうであるとしても、そうでなくなりうるのが、私たちの世界である。だから、あなたはもうすぐこの文章を読まなくなるし、来年の12月の南極の平均気温は-1.8℃ではないだろう。私たちの世界では、何かでありうることが、現に何かであることになるからである。すなわち、私たちの世界は、何かが実現する世界なのである。そして、何かが実現するとは、何かでありうることが、現に何かであることになることである。だから、現に何かが生じるには、現実態である形相だけでなく、まず可能態である質料がなければならない。つまり、――たんに何かが現実であるだけでなく、――何かが実現するには、現に何かであることだけでなく、何かでありうることがなければならない。何かでありうることが、現に何かであることになる。何かが実現するとは、そういうことなのである。

 すると、アリストテレスの神は、私たちの世界を創るには、可能態である質料に現実態である形相を与えなければならないことになる。(もちろん、私たちの世界に始まりがないのであれば、それは、どこかで創られたのではなく、そもそもずっと在ったことになるので、ここでは世界には始まりがあると仮定されたい。)だが、神が純粋な形相をすべてもっているとして、純粋な質料は一体どこにあるのだろうか。無限定の可能性はどこにあるのだろうか。もしかしたら、それもまた神から生まれるのだろうか[40]。あるいは、もし純粋な質料が(神によっても)生成されるものでないのなら[41]、それはまさに—―アナクシマンドロスの無限定なもの(ト・アペイロン)のような[42]—―万物の根源(アルケー)であるのだろうか。

 実のところ、この難問は、――たとえば神学的には重要であるだろうが、――今の私たちにはさして重要ではない。というのも、私たちが今向き合うべき問いは、可能なことがいかにして実現するのかであって、可能なことがいかにしてあるのかではないからである。そして、(たとえ世界それ自体に始まりがないとしても、)私たちの世界の物事には始まり(と終わり)があるからである。私たちの世界では、何かでありうることが、現に何かであることにな(り、またそうでなくな)るからである。だから、無限定の可能性は、神に創造されようと、神と独立であろうと、私たちの世界にはなければならない。さもなければ、何かが実現するということが、そもそも世界からなくなってしまうからである。だが、そんな世界はもちろん私たちの世界ではない。私たちの世界は何かが実現する世界である。そして、〈遊び〉が実現する世界である。そのためには、無限定の可能性にただ現実態の形相が与えられればよいのである。そうしてアリストテレスの神は私たちの世界を創ったのではないだろうか。

 だが、私たちの世界は実は別の創り方でも創れる。それはライプニッツの神の創り方である。たとえば『モナドロジー』には次のように書かれている。

 

  53 ところで、神のもつ観念のなかには無限に多くの可能的宇宙があるのに、宇宙はただ一つしか現実に存在できないのであるから、他の宇宙でなくてこの宇宙を選ぶよう決定する神の選択の十分な理由がなければならない。…

  54 そしてこの理由は、適合のなか、もしくはこれらの世界が含んでいる完全性の度合いのなかにしか存しえない。可能的なものはどれも、内包している完全性に応じて現実存在を要求する権利をもっているからだ。こうしてそこには、まったく恣意的なものは一つもない。…

  55 これが最善なものが現実存在する原因である。神は知恵によって最善なものを知り、善意によってこれを選び、力能によってこれを生じさせる。…[43]

 

なるほど、ライプニッツの神は、可能な世界(のこと)をすべて考えられるのだから、可能な形相をすべてもっている、と言える。そして、その中から(最善な)一つを選び、これを力能によって現実に存在させたのである。これがライプニッツの神の世界の創り方である。

 たしかに、可能なことは何であれ、現実のことになりうる。それが可能であるということの意味だからである。だから、可能的な世界(のこと)はどれも平等に現実になりうる。にもかかわらず、このような(形の)世界が現実であるのは、どういうことなのか。どうして別の(形の)世界が現実でないのか。もちろん、ライプニッツの神ならば、この(形の)世界が最善であるからだ、と答えるにちがいない。(それゆえに、ライプニッツの神は〈遊び〉で世界を創ったわけではないが、もちろん、それが〈遊び〉であるかどうかと、いかにして可能なことが実現するのかは、互いに独立の問題である。)だが、この(形の)世界はむろん可能なままでも最善であったのでなければならない。というのも、――たとえば、現実の100ターレルが可能な100ターレルよりも内容として多くを含まないように[44]、――現実の最善世界は可能な最善世界と形(相)ないし内包を異にするものではないからである。だから、もし仮に、神が考える可能な最善世界と神が創る現実の最善世界の間に、内容の違いがあるのであれば、そもそも神は最善世界の実現に失敗してしまうことになる。だが、神さまがそんな失敗をするはずはもちろんない。神さまは自らが考えた最善世界をそのまま(の形で)実現したのである。

 とはいえ、ライプニッツの神はどのようにして無数の可能な世界から一つを現実にするのだろうか。可能な100ターレルを現実の100ターレルにするには、どうしたらよいのだろうか。そのためには、もちろん可能なことに端的に現実性を与えればよい。すなわち、可能的な形相にただ無内包の現実性が与えられればよいのである。ここで無内包の現実性とは、永井均によれば、「いかなる内包(内容、中身、等々)の変化によっても根拠づけられない端的な現実性」[45]である。ライプニッツの神はそれを可能な世界の一つに与えて現実の世界を創ったのである[46]

 では、私たちの世界は、(もし始まりがあるのなら、)アリストテレスの神に創られたのか、それとも、ライプニッツの神に創られたのか。すなわち、無限定の可能性に現実の形相が与えられたのか、それとも、可能的な形相に無内包の現実性が与えられたのか。これは実にまったく定かではない。というのは、私たちの世界は、すでに創られてしまっていて、もはや現にこのようにあるだけだからである。

 たしかに、何であれ、可能な何かを現実にするということが、そもそも何をすることなのかが、私たちにはよくわからない。たとえば、あなたは、――できることなら何でもよいのだが、――右手の親指と薬指で輪を作ることができるだろうか。もしできるなら、――できなければ、何か他のできることを何でもよいので、――実際にやってみてほしい。そして、できたものを見ながら、それがどのように実現されたのか、よく考えてみてほしい。あなたはそれを一体どのように実現したのだろうか。あなたは、左手ですることもできたし、親指と中指ですることもできたし、あるいは、もっと他の(たとえば歌ったり走ったりする)こともできたし、そもそも何もしないこともできたのに、いきなりそれを実現してしまったのだろうか。それとも、それが(イメージとして)可能であるから、まさにそれ(のイメージ)をそのまま現実にしてしまったのだろうか。すでに実現されたものをいくら眺めても、――あるいは何度それをやってみても、――どちらの創られ方でそれが実現したのかはけっしてわからない。どちらの創り方で実現されようと、実現されたものは同じだからである。

 もしかしたら、そもそも、たんに自分の指を曲げることでさえ、どのように実現されているのか、わからなくなってしまったかもしれない。そこで、もう少し卑近(だが少し粗雑)な例を挙げておこう。たとえば、目の前に星の形をしたクッキーがあるとしよう。果たして、それは、どんな形にもなりうるクッキー生地に星の型が押し当てられて、作られたのだろうか。それとも、それ以外にも丸い型やハートの型も使えるのに、色々な型の中から星の型を選び、そこにクッキー生地を詰め込んで、作られたのだろうか。もちろん、どちらの製法でも作られるのは、同じ星形のクッキーである。だから、どんなに現にある星形のクッキーをよく見ても、それがどちらの製法で作られたのかはもはやけっしてわからない。

 さて、私たちの世界も、どちらの神に創造されたにせよ、(あるいはそもそも始まりがないにせよ、)もはや現にこのようにあるだけである。しかし、このようにある私たちの世界それ自体が、まさに現に何かが生じる世界なのである。つまり、それは、何かでありうることが、現に何かであることになる世界である。可能なことが現実になる世界である。だから、私たちは本当に指で輪を作ったり星形のクッキーを作ったりできるのである。だから、〈子ども〉は〈遊び〉を実現できるのである。

 すると、もしかしたら、〈子ども〉たちも、アリストテレスの神のように、あるいは、ライプニッツの神のように、〈遊び〉を実現しているのかもしれない。というのも、何であれ可能なことは、いずれかの仕方で(のみ?)、現実になるからである。(あるいは、さらに別の仕方があるだろうか。)もちろん、すでに実現した〈遊び〉に驚くだけの大人には、〈子ども〉がどちらの神のように〈遊び〉を実現しているのかはわからない。だが、もし本当に〈子ども〉が何でも〈遊び〉で実現できるなら、どんな〈遊び〉の実現であれ、無限定の可能性に現実態の形相が与えられるか、あるいは、可能的な形相に無内包の現実性が与えられるか、のいずれかでなければならない。〈子ども〉は一体どちらで遊んでいるのだろうか。

 たとえば、「あざましやん」とか「そーいーゆー」とか、ただ変な言葉を発して、〈子ども〉は遊ぶことがある。それは、もちろん、ルールや勝敗のあるゲームでなく、ただ言いたいときに現に言うだけの〈遊び〉である。だが、〈子ども〉はこの〈遊び〉を一体どのように実現するのだろうか。〈子ども〉は、無限定の可能性にいきなり「あざましやん」の形相を与えるのだろうか、それとも、可能的な「そーいーゆー」の形相にそのまま無内包の現実性を与えるのだろうか。果たしてどちらが〈子ども〉の実現の〈遊び〉なのだろうか。

 

 

[29] とはいえ、アリストテレスによると、たとえば、見ることが可能であるということは、現に見ることが可能であるということであるのだから、(何かが)可能であるということがわかるためには、そもそも(何かが)現実であるということがわかっていなければならないので、その意味では現実性が可能性よりも先であることになる。また、たとえば、人間が人間から生まれるように、同じ種の可能なものを現に生じさせるのは、同じ種の現実のものであるので、この場合にも、現実のものが可能なものに時間的に先行することになる。しかし、たとえば、現に生えている植物にはその質料(因)である種子が先立つので、彼もまた、現に生じていることについては、その可能態としての質料(因)が現実態に時間的に先行することを認めている。(アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,39-40頁)そして、ここで私たちが特に考えたいのは、もちろん〈遊び〉の質料(因)である。すなわち、〈遊び〉の質料(因)である無限定の可能性は、現に生じている〈遊び〉に時間的に先行しなければならないのである。

[30] たとえば、「子どもには無限の可能性がある」のような言い回しは、ここで具体的な事例を紹介する必要がないくらいに、いたるところで目にすることができる。もちろん(特に子どもの)遊びについても同様である。「(子どもの)遊びの可能性は無限である」のようなフレーズは誰でも一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

[31] とはいえ、第十回の連載で〈子ども〉の実在について論じたように、私たちは、実現していないことでさえ、実在すると信じる(あるいは少なくとも考える)ことはできる。また、第五回の連載で見たように、因果(的な力)や自然の斉一性や過去自体についても同じことは言える。

[32] Cf. アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,138頁.

[33] Cf. アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,41頁.

[34] Cf. アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,41, 43 頁.

[35] アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,147頁.

[36] Cf. アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,137, 147頁.

[37] アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,153頁.

[38] 前回の連載でも確認したように、アリストテレスによれば、「…或る質料は感覚的質料であるが、他の或る質料は思惟的質料である…」(アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,269頁)。

[39] 国土交通省気象庁「観測開始からの毎月の値」https://www.data.jma.go.jp/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=99&block_no=89532&year=&month=&day=&view=,(2026年2月1日閲覧)

[40] たとえば、トマス・アクィナスの『神学大全』第1部第44問題では、第一の質料もまた神の創造によるものである、と論じられている(https://www.ccel.org/a/aquinas/summa/FP/FP044.html#FPQ44A2THEP1)。

[41] Cf. アリストテレス『形而上学(下)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月15日,138頁.

[42] たとえば、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』には、「アナクシマンドロスは…無限(定)なもの(ト・アペイロン)を(万物の)始原や元素であると主張して、それを空気とか水とかその他のものとして限定することはしなかった」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』加来彰俊訳,岩波文庫,1991年2月15日,117頁)、と書かれている。

[43] ライプニッツ『モナドロジー』谷川多佳子・岡部英男訳,岩波文庫,2019年4月16日,49-51頁.

[44] カント『純粋理性批判(中)』篠田英雄訳,岩波文庫,2001年5月16日,266頁.

[45] 永井均『存在と時間:哲学探究Ⅰ』文藝春秋,2016年3月30日,270頁.

[46] これは永井によるライプニッツの神の解釈で(も)ある。彼は、前述の引用に続けて、「それは、…ライプニッツが神は諸々の可能性界から一つを選んで存在を与えたと語る際の…「存在する」の意味でもある」(永井均『存在と時間:哲学探究Ⅰ』文藝春秋,2016年3月30日,270頁)、と述べている。

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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