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音声学者とーちゃん、娘と一緒に言葉のふしぎを見つける

【最終回】音声学者とーちゃん、#我が家の可愛い言い間違いに学ぶ

本連載の一つの柱として、「子どもたちの言い間違いを音声学的な観点から分析すると、法則性に満ちていて、様々な発見がある」ということをお伝えした。当該の回の原稿を書きあげなら、ふと「他の家庭のお子さんの言い間違いも募集したら面白いのでは?」と思い立ち、編集者さんと協議の上、「#我が家の可愛い言い間違い」というタグを作り、Twitter上で募集することとなった。募集する前は「50件くらい集まればいいな」「ひとつひとつ分析していけば、読者のみなさまとの交流になるかな」「コロナ禍で子育て広場に行けないけど、ネット上でひさびさに子育てあるあるトークができるかな」くらいの気分でいた。しかし、蓋を開けてみると、この企画は大好評であっという間に600件を超えるツイートを頂いた。企画を始めてすぐの頃は、すべての例をTwitter上で分析していたのだが、あまりの好評っぷりに全てを分析して公開するのは現実的ではないという結論に至った。代わりと言っては何だが、本連載の締めとして、「#我が家の可愛い言い間違い」で寄せられた例に基づいて、今まで論じてきたことを振り返ったり、はたまた音声学者とーちゃんが新たに学ばせて頂いたことを書き連ねていきたい。

本論に入る前に数点お伝えしたいことがある。まずは、ツイートしてくれたみなさま、本当にありがとうございます。集まった例は、私自身はもちろん、言語学という分野全体にとって貴重な資料になるものだと感じた。言語学者を代表する資格は私にはないが、勝手に代表してお礼を申し上げたい。また、自分が勉強する過程で噂には聞いていたことが実際の例で示されていたり、はたまた新しい観察をさせて頂いたりと、私個人としても学ぶことが多かった。改めてありがとうございます。本当にひとつひとつの例を分析したいところだが、いかんせん数が多すぎるので、テーマ別に分けて関連する例を拝借させて頂くことにした。ただ、誓って言うが、全ての投稿にじっくり目を通させて頂きました。どれも可愛らしくて、たまりませんでしたよ。

さて前置きが長くなってしまった。実際の分析に飛び込もう!

親どもよ、わかっていないのはそちらのほうだ

まず取り上げるのは、一つの言い間違いというよりは、親とのやりとりからわかってくることだ。というのも、子ども自身は二つの単語を言い分けているつもりなのに、親にはその違いが聞こえない、というエピソードが数点寄せられた。その一例がこちら:

子「てんたっちーいじちゃん、めがねかけてゆのー」
私「いじちゃん?」
子「ちあう。いじちゃん」
私「おじちゃんでしょ」
子「いじちゃん」
私「いじちゃん?」
子「ちあう!いじちゃん!」

お子さんは「いじちゃん」と発音しているように聞こえるが、親が「いじちゃん?」と聞くと「それは違う」という。つまり、子どものなかで「いじちゃん」と他の何かXがあって、それは別々のものなのだが、子どもはXを意味しているのに、大人には「いじちゃん」と発音しているように聞こえるらしい。

この親と子どもの行き違いの原因には二つの可能性が考えられる。ひとつは、子どもは本当に「いじちゃん」とXを発音し分けているのだが、親がその違いを聞き取れていないというもの。大人になると英語の微妙な違いの聞き分けができなくなるように、大人は言語の聞き取りに関しては、まったく信用できないところがある。つまり、子どもたちがちゃんと2つの言葉を言い分けていても、その違いを聞き取れていない可能性は十分にある。

もうひとつの可能性は、子どもの中で認知的には「いじちゃん」とXが別物であるのだが、発音する時に二つが同じものになってしまっているということだ。大人だって「じ」と「ぢ」は頭の中で使い分けている(可能性が高い)が、発音する場合はどちらも同じ音になってしまう。「おう」と「おお」も同じで、「おとうさん」と「こおり」のように書く時には区別ができるが、発音するときは、どちらも[oo]と発音される。このように大人でも起こることが、上のお子さんにも起こっている可能性はある。どちらの可能性が正しいか精査するためは、音響信号を解析するという方法があるが、そのためにはお子さんの声を何回も録音して統計的な分析をしなければならない。残念ながら、Twitter上では実行不可能だ。しかし、どちらの可能性が正しいとしても、子どもはちゃんと2つの単語を言い分けている(つもりになっている)という観察はとても興味深いと思う。

関連して、「『サ行・タ行・カ行』すべてが『タ行』になってしまうが、それでも『サイ』と『鯛』と『貝』の聞き分けはできる」というお子さんの報告を頂いた。この観察に関しては、前々から文献で読んで存じて上げてはいた。子どもは「聞き分け」が先にできるようになり、「発音の区別」が「聞き分けの区別」に遅れることがあるらしい。つまり聞く時には区別ができても、発音の区別ができないことがある。上で論じたお子さんにも同じことが起こっている可能性は十分ある。ここで興味深いのは、大人との違いである。大人が第二外国語を学ぶ際は逆のことが起こる。例えば、日本人の大人が英語の[l]と[r]の発音上の区別を教わって、発音するときは区別ができるようになったとしても、その聞き分けは難しいというのはよく知られた現象だ。何を隠そう、私自身も英語の[l]と[r]は、発音の区別はつけているが、聞き分けはけっこう失敗する。

音の解像度が高い

音声学をまったく学んだことのない日本語話者の大人に「『ば』って何個の音ですか?」と聞けば、「ひとつの音です」と答えるであろう。この連載を通して音声学を学んでくれた人ならば「『ば』は[b]という子音と[a]という母音に分けられるのよね」と思ってくれるかもしれない。私と北山陽一さんとの対談を読んでくださった人は、「[b]や[a]という音も、さらにそれぞれ細分化されるかもしれないのね」と覚えていてくださったかもしれない。プロの歌手である北山さんのように、子どもたちは音の解像度が高いことを示す例が多く観察された。

まずは、大人にとっては「ば」は「ば」でひとつの塊だが、「ば」が[b]と[a]という子音と母音に分かれていることを示す例が多く寄せられた。以下に、子音だけがひっくり返ったり、子音だけが同化される例をあげよう:

子音だけ同化

ポップコーン ポックコーン [poppukoon] [pokkukoon] 

タピオカ パピオカ [tapioka] [papioka 

サンタクロース サンカクロース [santakuɾoosu] [sankakuɾoosu] 

めがね めがげ [megane] [megage]

子音だけひっくり返る

くるま くむら [kuɾuma] [kumuɾa] 

アマゾン あじゃもん [amazon] [aʑamon] [z]は口蓋化して[ʑ] 

アスパラ アプサラ [asupaɾa] [apusaɾa] 

ペネロペ ペレノペ [peneɾope] [peɾenope] 

ケチャップ パケッチュ [keappu] [pakettɕu] (すっごいひっくり返った!)

子音だけコピー

おでむかえ おでむかで [odemukae] [odemukade] 

ピアノ ぴなの [piano] [pinano] 



つまり、子どもの中ではまだ「子音+母音」というかたまりが大人ほど強い結び付きを持っておらず、子音だけが場所を変えたり、コピーされたり、同化したりするということだ。これは、北山さんの言葉を借りれば「音の解像度が高い」と解釈できる。

今回寄せられた例に目を通していると、子音のほうが母音よりもひっくり返ったり同化したりする例が多かったように感じた。音声学的には、母音というのは、我々の発音の土台になるものである。日本語では、この傾向がとくに顕著で、「あ」や「い」など母音だけの拍は存在するが、子音だけの拍は「ん」しか存在せず、「ん」も前の拍にくっついてしか存在できない。そんなわけで、もしかしたら母音は子音よりも安定しているのかもしれない。しかし、母音だけに何かが起こる例もいくつか見つけたので紹介したい:

母音だけコピー

おかたづけおたくづけ [okatazuke] → [otakuzuke] ([k][t]もひっくり返る)  

ブロック ブロッコ  [buɾokku] → [buɾokko] 

おくすりおくりし  [okusuɾi] → [okuriɕi] ([s][ɾ]もひっくり返る 

母音だけひっくり返る

なおった のあった [naotta] [noatta] 

ひさしぶり ひひしゃぶり [çisaɕiburi] → [çiçiɕaburi] [s] →[ç]への同化も) 

いるか うりか [iɾuka] [uɾika]  

解像度の高さは「子音」や「母音」がそれぞれ単独に振る舞うだけではない。音声学入門の回で説明した「調音点」だけが自由自在に動く例や、「調音点」「調音法」が同化する例も観察された。つまり、「ば」が[b]と[a]に分かれているだけでなく、[b]は「有声」「両唇音」「破裂音」という[b]の3つの構成要素からできていて、それぞれの構成要素がひっくり返ったりしてしまうこともあるようだ。

調音点だけひっくり返る

だいこん  がいとん [daikon] [gaiton] 

かんかんでり てんてんがり [kankandeɾi] [tentengaɾi] (母音もひっくり返る)  

くじゃく ちがく [kuʑaku] [tɕigaku] (語頭母音もなぜか変化) 

調音点だけ同化

たべるぱべる [tabeɾu] → [pabeɾu] 

タブレット パブレット [tabuɾetto] [pabuɾetto] 

調音法だけ同化

こむぎこ こむにこ [komugiko] [komuniko]   ([n]の調音点はどこから?) 

してたのに してたのし [ɕitetanoni] [ɕitetanoɕi] (遠くの音に同化! 

哺乳瓶 ほみーみん [honjuubin] [homiimin]  ([n]の鼻音性が[b]へ、[b]の両唇性が[nj]へ) 


あたしはアラビア語方式で!

「ねんねしてくれなくてちょべりば」の回で、アラビア語の話を少しさせて頂いた。アラビア語では例えば、[k…t…b]という子音のセットが「書く」という意味を表し、[a…a…a]という母音のセットが三人称過去を表す。子どもの発話で、アラビア語と同じように、「子音のセット」と「母音のセット」がそれぞれ違う意味を表すという現象も報告されたので、音声学とーちゃんは感動した:

くぅぷぅぷぅ kuupuupuu (しょくぱんまん)

かぁぱぁぱぁ kaapaapaa (あんぱんまん)

この子の中では[k…p…p]という子音の並びが「アンパンマンのキャラ」を表していて、[uu…uu…uu]が「しょくぱんまん」、[aa…aa…aa]が「あんぱんまん」を表している。しかも、どちらの例も子音と母音の並び方が一緒だ。なんという美しい例だろう。ドキンちゃんが[koopoopoo]で、バイキンマンは[kiipiipii]になるのだろうか……とまで夢想した。本当にそうだったら、アラビア語と瓜二つである。

現実世界のピノコ

子どもの言い間違いは、「何かを発音できないという能力の欠如といった単純な話ではない」という熱いメッセージを伝えるために、我が娘たちのデータでは足りないので、ピノコ様にご登場頂いたこともあった。復習すると、ピノコ言葉は「ダ行」が「ラ行」になり、「ラ行」が「ヤ行」になるという特徴がある。つまり、ピノコは「『ラ行』が言えない」という簡単な話ではないということだ。例は一つだけだが、こんな報告を頂いた:

モンールモンール [ɕinamonɾooɾu] → [ɕiɾamondooɾu] 

ピノコ同様、「ラ行」が「ダ行」に変化している(「ロ」が「ド」に変化、「ル」が「ドゥ」にならないのは「ドゥ」がそもそも日本語に現れないから?)。しかし、「ナ行」は「ラ行」に変化して、「ダ行」には変化していない。つまり、この子も「ラ行」が発音できない、という単純な話ではないのであろう。この例も音声学者としてとても素敵な例だと感じる。 

後ろが大事

連載中に子音同士の同化現象を紹介したときに、こんな謎が残っていることをお話した。我が子は「だっこ [dakko]」が「がっこ [gakko]」になるように、後ろの子音[k]の調音点を前にコピーする時期があった。そして今回投稿してくださった例でも、上であげた「子音だけ同化する」例を見てみると、圧倒的に後ろから前に同化が起こる例が多い。未だに、なぜ「後ろから前」という傾向にあるのか疑問は残るのだが、「子どもは後ろが大事」という例を他にもいくつかご報告頂いた: 

報告1

ヨーグルトト or グート or グルト

滑り台ぶだい

レミンちゃんちゃん、みんちゃん 

報告2

お父さん・お母さんさん

ピタゴラスイッチちぃ

報告3

ヨーグルトグルト

ぬいぐるみぐるみ

どうやら子どもは後ろの音を大事にするらしい。「世界の中心で愛を叫ぶ」を「せかちゅう」と略す大人は、単語の最初の音を大事にすることがわかっている。単語の最後が大事なら「かいしん」と略すはずだが、これだと確かにもとのタイトルが何だったのか推測するのが難しい気がする。この大人と子どもの違いはどこからくるのであろうか……これは音声学とーちゃんへの今後の宿題とさせて頂きたい。

やっぱり繰り返しがすき

お母さん言葉の回で、赤ちゃんは繰り返しを手がかりとして、親から向けられる音の流れから単語を切り出してしているという話をした。また、それが理由か、赤ちゃんは繰り返し自体を好むということもご紹介した。その赤ちゃんに合わせてか、お母さん言葉でも「ねんね」や「じゅんばんばん」など繰り返しが多用される。そんなわけで、子どもも自分の発話の中で、繰り返しを好むようになるらしい:

おっけーグーグルおっけーぐるぐる

くらくしてくらくらして

バドミントンバミトントン

イーブイブイブイ

ぎゅうにゅうぎゅにゅにゅ

おつきさまおちゅきちゃまま

これらの例を見ていると、親御さんたちがお子さん達への語りかけの中で、繰り返しを多用して、子どももそれにつられてしまっている光景が目に浮かぶ。この繰り返しを含む「言い間違い」は、いかにも子どもらしくて可愛い例だと思う。

まとめ

今回のお祭り企画はとても楽しかった。始める前には編集者さんと「次回の記事の一節くらいになりますかねー」と話していたが、あれよあれよと企画が盛り上がり、今回の形となった。企画自体も楽しかったが、何よりも、私が連載の中で紹介してきた事例が、他のお子さんでも観察されるということが喜ばしかった。最終回までこの企画をお待たせしてしまったのは、みなさまから寄せられた例を分析しながら、本連載を振り返りたかったというのもある。

そして、しばしのさよなら

名残惜しいが、本連載はここで一旦終了である。心配しないでほしい。打ち切りではなく、単行本化が決定したのだ。確かに一冊の本になる分量は書かせてもらったし、子育てという視点から音声学や言語学の重要概念をけっこう紹介できたと思う。「子育ての観点から音声学を紹介する」という企画は過去になかったものだと思うが、いかがだっただろうか? 連載という形をとったおかげで、みなさまと「#我が家の可愛い言い間違い」企画をすることができたり、はたまた連載中に北山陽一さんと出会い対談企画まで行ったりと、連載を始めた当初では考えられなかったような経験をさせて頂いた。

咲月・実月という2人の娘と過ごせた時間のおかげで気づけたこと、そしてそれを妻の朋子と一緒に体験しながら楽しんだこと、それらをみなさまとシェアできたことは本当に楽しかった。実は、連載で取り上げた洞察の多くはコロナ禍の自粛生活中に得られたものである。実月の言い間違いの録音や咲月の手叩き実験などなど、自粛期間におこなったことは数多い。外に出られないならせめて家族で楽しもうと頑張った結果がこの連載を産んでくれた。 

唯一の心配は、この連載では子育ての楽しい部分を抜き出しているから、川原家があたかも理想の子育て環境にあるかのように描かれてしまっていないかである(冷静な「妻の一言」コーナーのおかげで、この問題は緩和されている気もするが)。心配しなくても、川原家でも毎日のように修羅場はやってくる。私もこの連載で描かれているような理想の父親にはほど遠い。子育てがこんなに大変だとは思ってもみなかった。それでもやはり、この連載で繰り広げた川原家の思い出は私の中で宝である。そんな我々の旅を一緒に楽しんでくれた人は単行本も手に取ってくれれば、川原家全員で感謝をお送りしよう。単行本では、連載では泣く泣くカットされた小話や書き下ろしのコラム、連載では触れられなかった新たな章など追加要素が盛りだくさんだ。 

最後は連載中に成長し、抽象画だけでなく、写実的な絵を描けるようになってきた実月(3歳)と、この半年でとーちゃんの画力を完全に追い越した咲月(6歳)の絵をもって、最後のお別れとしたい。

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著者略歴

  1. 川原繁人

    1980年生まれ。1998年国際基督教大学に進学。2000年カリフォルニア大学への交換留学のため渡米、ことばの不思議に魅せられ、言語学の道へ進むことを決意。卒業後、再渡米し、2007年マサチューセッツ大学にて言語学博士を取得。ジョージア大学助教授、ラトガース大学助教授を経て、2013年より慶應義塾大学言語文化研究所に移籍。現在准教授。専門は音声学・音韻論・一般言語学。研究・教育・アウトリーチ・子育てに精を出す毎日。著書に『音とことばのふしぎな世界』(岩波科学ライブラリー)『「あ」は「い」より大きい!?:音象徴で学ぶ音声学入門』(ひつじ書房)など。

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