やわらかいアイデンティティ
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です!
全20回の連載もあと2回。今回は「アイデンティティ」について考えます。
早いもので、この連載も残すところあと2回となりました。そこで今回は、リベラルアーツと外国語に共通する「アイデンティティ」の問題に触れておきたいと思います。
一般に「自己同一性」と訳されることの多いこの言葉は、文脈によって多少の違いはありますが、基本的には自分が自分であることの理由、言い換えれば、自分が他者と区別される根拠といった意味で了解されています。ですからそれは時間がたっても場面が変わっても変化しないもの、常に一定の内容を保つものであると考えられています。
ただしこの考え方は、ともすると「私は私である」という不変性・固定性ばかりを強調することになりかねません。でも私たちは、日々の生活の中で何種類もの自分をそのつど入れ替えながら生きているというのが実態なのではないでしょうか。
たとえば私自身の例をとってみると、家庭では夫や父親として、職場では一人の教員として振舞いますし、地域では一住民として、電車の中では一乗客として、映画館では一観客として行動しています。つまり「私」という存在はけっしていつも同じわけではなく、周囲の状況によって次々に変化しているのです。
もちろん、それでもなお深いところで持続している自己のことを「アイデンティティ」と呼ぶのだ、という言い方もできるでしょう。しかしそうだとしても、それはいったん確立されたら生涯変わらないものではなく、毎日の経験を通して少しずつ形を変えているはずです。今日の私は昨日の私と同じではないし、明日の私も、たぶん今日の私と同じではないでしょう。
つまりアイデンティティとは、何か岩のように固い塊のようなものではなく、粘土のように伸縮自在な(可塑的な)柔軟さをそなえたものではないかと思うのです。
こうしてみると、リベラルアーツも外国語も、知らぬ間に凝固してしまったアイデンティティを、いわば熱で溶かすようにして解きほぐすきっかけになるという点で、共通していることがおわかりいただけるのではないでしょうか。
未知の学問に触れ、未知の言語を学び、未知の土地を訪れ、未知の人々と出会うこと、それらはすべて、今ある自分をさまざまな限界の外に連れ出し、最終的には「未知の自分」に向けて開くことにほかなりません。その過程では、安定していた自己が揺さぶられ、突き崩され、時には根底からくつがえされてしまうこともあるでしょう。けれども私たちの「やわらかいアイデンティティ」は、そうした経験を乗り越えてさらに成長するだけの強靭さをそなえているはずだと、私は信じています。
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2021年5月に行われた、中部大学創造的リベラルアーツセンター(CLACE)主催シンポジウム「リベラルアーツと外国語」が一冊の本になりました。
著者司会のもと鳥飼玖美子先生/小倉紀蔵先生/ロバート キャンベル先生を迎え行われた
刺激的なシンポジウムだけでなく、9名の豪華識者による論考も必見です。
『リベラルアーツと外国語』水声社刊
定価2750円 ISBN978-4-8010-0626-3