寛容の精神とリベラルアーツ
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です! 全20回の連載も後半戦。もう一歩「外国語」の存在について考えます。 |
ここまで二回(第十一回、第十二回)にわたって、昨年5月に中部大学で開催した「リベラルアーツと外国語」に関するシンポジウムの話題をとりあげてきましたが、あと1回だけおつきあいください。
パネリスト同士のやりとりでもうひとつ強く印象に残ったのは、ロバート・キャンベルさんが「寛容」(tolerance)という言葉についてなさった発言でした。キャンベルさんはこの言葉に「相手に落ち度があり、罪過があるけれども、その罪過をとがめだてせず、大目に見て許すという意味がある」ことを指摘して、自分はそれに抵抗感があるという意味のことをおっしゃったのです。これにははっとさせられました。
「寛容」とは、心をひろく持ち、多少のことには目をつぶって大らかに受け入れることですから、一般にいいことであるとされています。じっさい新聞や雑誌でも、近年は「寛容な社会」という言葉をしばしば見かけます。
けれどもその根底にあるのは、自分の方には過ちも落ち度もないという意識であり、さらに言えば、正しさはあくまで自分の側にあるという思い上がりなのではないか ―それがキャンベルさんの問題提起だったのだと思います。
第10回で扱った第二外国語の問題を思い出してください。英語だけ学べばいいと主張する人たちの中にも、余裕があれば他の外国語も学べばいいではないか、という人は少なからずいます。これは確かに、第二外国語にたいする「寛容」な姿勢の表明なのでしょう。しかしなにげなく用いられている「他の外国語も」という言い方の中には、英語優位の思想が当然のように含まれています。
これとよく似た「も」という助詞の使い方は、別の場面でもたびたび見られます。たとえば「女性も管理職に登用しよう」とか、「文系の学問も重視すべきである」というのがその例ですが、これらはいずれも、男性優位・理系優位の思想が暗黙のうちに前提されているからこそ出てくる言葉です。「性的マイノリティの生き方も認めなければいけない」などは、その最たるものでしょう。
寛容な姿勢はいかにも善意の表明であるような印象がありますが、それが無意識の「上から目線」に基づいている限り、リベラルアーツの精神とは相容れません。なぜならリベラルアーツの基本理念のひとつは、けっして自分が相手よりも上であるとは思わないこと、絶対に他者を見下さないことであるからです。
もちろん、実際の社会にはさまざまな上下関係が存在するでしょう。しかしあらゆる属性を取り去ってしまえば、私たちのあいだに「差異」はあっても「優劣」などないはずです。キャンベルさんの発言はこの当たり前のことを思い出させてくれました。
第十四回 明晰な言語・あいまいな言語はこちら
昨年5月に行われた、中部大学創造的リベラルアーツセンター(CLACE)主催シンポジウム「リベラルアーツと外国語」が一冊の本になりました。
著者司会のもと鳥飼玖美子先生/小倉紀蔵先生/ロバート キャンベル先生を迎え行われた
刺激的なシンポジウムだけでなく、9名の豪華識者による論考も必見です。
『リベラルアーツと外国語』水声社刊
定価2750円 ISBN978-4-8010-0626-3