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リベラルアーツの散歩道 ― 外国語と世界を歩く

自動翻訳でできないこと

 近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です!

 全20回の連載も終盤戦。翻訳について考えます。

 

 前回見た通り、AIによる自動翻訳の進歩にはめざましいものがありますが、それでもうまく外国語に訳せない日本語表現はいくつもあります。

 よく例に出されるのは、私たちが食事の前後で自然に口にする「いただきます」「ごちそうさまでした」などの決まり文句です。ある翻訳サイトで英語にしてみると、前者は « I’ll enjoy having this. »、後者は « Thank you for the meal. » と変換されて出てくるのですが、いずれも奇妙な印象をまぬがれません。英語でこんなことをいちいち食事の前後に言う習慣はないからです。

 フランス語では食事を始めるときに « Bon appétit ! » (ボナペティ)と言いますが、これは文字通りには「良い食欲を」という意味ですから、自分が「いただく」のではなく、相手に「どうぞ召し上がれ」と勧めるか、一緒に食べる人に「さあいただきましょう」という場合に使われる表現です。だから食事を出してくれた人に向かって言うと、おかしな顔をされてしまいます。

 「行ってきます」「ただいま」といった表現も同様で、英語では外出時や帰宅時にいちいち « I’m going. » とか « I’m back. » とか念押しすることはほとんどないでしょう。フランス語では出かける時に « À ce soir. »(ア・ス・ソワール)と言ったりすることがありますが、これは「また今晩ね」というのが文字通りの意味ですから、その日のうちに帰宅しない場合には使えません。

 また、私たちがしょっちゅう口にする言葉に「よろしくお願いします」というのがありますが、これをある翻訳サイトで英語に変換してみると « Please remember me. »という表現が出てきて、日本語のニュアンスとはかなりずれてしまいます。別のサイトで試してみると « I look forward to working with you. » という訳文も得られましたが、これはこれから相手と一緒に仕事をする場合に限られるので、ただ「今後もよろしくおつきあいください」とだけ言いたい場合には不適切でしょう。

 普段よく口にする常套句を直訳するとたいてい不自然な言い方になってしまうのは、日本語と外国語のあいだにあるのが単なる語彙や文法といった語学的な差異だけではなく、日常的な生活習慣の差異であり、さらにいえば文化的な差異でもあるからです。つまり翻訳とは、単にある言語を別の言語に移し替えるだけでなく、ある文化を別の文化に変換する行為でもあるということです。

 このように、生活や文化のレベルに話が及んでくると、AIにもまだ現段階では限界があるように思われます。しかしこれまでの進歩の驚異的な速度を考えれば、そうした問題が克服される日もそう遠くないのかもしれません。

 第十七回「何よりもまず音楽を」はこちら

 

 昨年5月に行われた、中部大学創造的リベラルアーツセンター(CLACE)主催シンポジウム「リベラルアーツと外国語」が一冊の本になりました。
著者司会のもと鳥飼玖美子先生/小倉紀蔵先生/ロバート キャンベル先生を迎え行われた
刺激的なシンポジウムだけでなく、9名の豪華識者による論考も必見です。
『リベラルアーツと外国語』水声社刊 
定価2750円 ISBN978-4-8010-0626-3

 

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著者略歴

  1. 石井 洋二郎

    中部大学教授・東京大学名誉教授(2015-19年春まで副学長をつとめる)。専門はフランス文学、フランス思想。
    リベラルアーツに関連した著作に『大人になるためのリベラルアーツ: 思考演習12題』『続・大人になるためのリベラルアーツ: 思考演習12題』(ともに藤垣裕子氏との共著、東京大学出版会刊)、『21世紀のリベラルアーツ』(編著、水声社刊)などがある。

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