第二十回 国家と言語
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です!
全20回の連載もあと最終回。今回は「国家と言語」について考えます。
数か月にわたっておつきあいいただいてきたこの連載も、今回で最終回を迎えました。気ままな散歩に目的地はありませんが、最後に、タイトルに掲げた「外国語」という言葉について述べておきたいと思います。
文字通りに読めば、これは「外国」の言語ということですから、そこには「国」の存在が暗黙の前提として含まれています。彼は「2か国語」を話せるとか、彼女は「3か国語」できるとかいう場合も、事情は同じです。しかしこうした言い方はともすると、国家と言語を一対一で対応させる発想に結びつきかねません。
ご承知の通り、英語をはじめとして、ある言語が複数の国で用いられている例はいくらでもあります。また、スイスやベルギーのように、ある国の中で複数の言語が併用されている例もめずらしくありません。フランスでも、地域によってブルトン語、バスク語、カタルーニャ語など、フランス語とは系統の異なる言語を話す人々が少なからず生活しています。世界じゅうを見渡してみても、おそらく国家と言語が完全に一致しているところなど、ほとんど存在しないのではないでしょうか。
ところが日本の初等・中等教育では、「日本語」ではなく「国語」が正式な科目名になっています。これは江戸時代までばらばらであった各地域の言葉を標準化することで、国家の一体化を推し進めようとした明治政府の方針によるものと言われていますが、この呼び方によって、私たちの意識に多かれ少なかれ「国=言語」という等式が刷り込まれてきたことは否定できないように思われます。
確かにコミュニケーション手段としての有効性を考えれば、ある程度の標準化によって共通性を確保することは必要でしょう。しかしだからといって、あたかも日本語が統一的な「標準語」だけであるかのように錯覚してはなりません。
近年は「母国語」という言い方を避けて、「母語」という表現を意識的に使うケースが増えてきましたし、私自身もそうしています。ですから「外国語」も、本当は「外語」と言ったほうがいいのではないでしょうか(めったに見かけることはありませんが)。
言葉は国家の枠を越えて、世界じゅうの人々と自由に交流することを可能にします。もちろん、言葉が行き交えば必ず誤解が生まれ、いさかいも生じるでしょう。しかしその誤解を解き、いさかいを解決するのも、また言葉なのです。
「限界からの解放」を目指すリベラルアーツとは、言葉を介して他者と対話し、異なる者への想像力を培い、私たちのあいだに立ちはだかるあらゆる境界を乗り越える「生き方」そのものであるということを申し上げて、連載の結びに代えさせていただきます。
最後までご愛読いただきありがとうございました。
(おわり)
2021年5月に行われた、中部大学創造的リベラルアーツセンター(CLACE)主催シンポジウム「リベラルアーツと外国語」が一冊の本になりました。
著者司会のもと鳥飼玖美子先生/小倉紀蔵先生/ロバート キャンベル先生を迎え行われた
刺激的なシンポジウムだけでなく、9名の豪華識者による論考も必見です。
『リベラルアーツと外国語』水声社刊
定価2750円 ISBN978-4-8010-0626-3