朕は猫なり
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です! 全20回の連載も後半戦。もう一歩「外国語」の存在について考えます。 |
言語どうしのあいだに「差異」はあっても「優劣」はない、というのが前回の趣旨でしたが、それでもやはり差異を乗り越えることには大きな困難がともないます。となると、「翻訳」の問題はどうしても避けることができません。
近年はAIを利用した翻訳ツールが急速に発達して、簡単な文章であればかなりの精度での自動翻訳が可能になりました。たとえばよく引き合いに出される例で、「吾輩は猫である」という文があります。言うまでもなく夏目漱石の小説のタイトルですが、ある翻訳サイトでこれを英語に変換してみると、当然ながら« I am a cat. »という答えが得られました。
では逆に« I am a cat. »と入れて日本語に戻してみるとどうなるか。どうせ「私は猫です」という定型文しか出てこないだろうと高をくくっていたら、あにはからんや、いきなり「吾輩は猫である」という回答が出てきたので、ちょっと驚きました。
夏目漱石の小説を知らなければ、「吾輩は猫である」という訳文が出てくることはまずありえません。つまりこの翻訳サイトには、単語と単語の対応関係や文法構造だけでなく、文化的背景まで情報として組み込まれていたわけです(ちなみに « I am a dog. »と入れてみると、今度は「私は犬です」という回答だけが出てきて、「吾輩は犬である」という文は表示されませんでした)。
となると、日本語をまったく知らない外国の人がこのツールを利用した場合、猫のときだけいきなり「吾輩」という特殊な主語代名詞が出てくることになるわけで、これを真に受けてそのまま使うと笑われてしまうのではないかと、心配になったりもするのですが、考えてみればその人は猫ではないのだから、これはまったくの杞憂でした。
自分を主語にする場合、英語は « I »、フランス語は « je »、ドイツ語は « ich »といった具合に、多くの言語では1つに定まります。ところが日本語では性別や年齢、職業や地位によってかなりのヴァリエーションがあるので、 « I am a cat. » という文ひとつとってみても、「吾輩は猫である」以外に「俺は猫だ」「あたいは猫よ」「わしは猫じゃ」「うちは猫どすえ」等々、いろいろな訳し方があります。猫が王様だったら「朕は猫なり」と言うかもしれません。
2人称代名詞についても、日本語では相手との関係次第で「君」「あなた」「おまえ」「あんた」等々を細かく使い分けますし、それ以上に「先生」「課長」「お客様」「お父さん」「お母さん」など、職名や立場や続柄をそのまま用いることが一般的です。外国語の学習をきっかけにして、母語のこうした特徴をあらためて他人の目で見直してみると、いろいろ興味深い発見があるのではないでしょうか。
第十六回「自動翻訳でできないこと」はこちら
昨年5月に行われた、中部大学創造的リベラルアーツセンター(CLACE)主催シンポジウム「リベラルアーツと外国語」が一冊の本になりました。
著者司会のもと鳥飼玖美子先生/小倉紀蔵先生/ロバート キャンベル先生を迎え行われた
刺激的なシンポジウムだけでなく、9名の豪華識者による論考も必見です。
『リベラルアーツと外国語』水声社刊
定価2750円 ISBN978-4-8010-0626-3