文法は「悪」か?
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です! |
外国語の学習は「4つの限界」を越えるリベラルアーツの重要な柱であるということを確認したところで、前回はいわゆる「文法」がその障害となりがちであることに触れました。今回はその続きです。
まず思い出していただきたいのは、連載の第3回で紹介した中世ヨーロッパのアルテス・リベラレス(自由7科)です。文法、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽の7つがその内容でしたが、筆頭に挙げられていたのがまさに「文法」でした。
ここで言う文法とはもちろん英語やフランス語ではなく、古代ギリシア語・ラテン語のそれを意味しています。特にローマ帝国の公用語であったラテン語は、聖職者にとってはキリスト教の教義を伝える上で必須の教養とされ、また学術言語としても広く用いられていたため、修道院や大学でもその文法が長く教えられていました。
これらの古典語をマスターするには、当然ながら複雑な格変化や動詞活用など、覚えなければいけないことがたくさんあります。しかし重要なのは、それが単なる暗記科目なのではなく、むしろそこから一定の規則性を取り出す知的訓練という性格の強いものだったということです。つまり自由7科の「文法」は、知識の限界を超えると同時に、思考の限界を超えるための教養としてもとらえられていたのです。
どんな外国語でも、ある程度学習を進めていくとなんとなく一定の規則性が見えてきて、それまで曇っていた視界がぱっと開ける瞬間が必ず訪れるはずです。これは私たちがまさに「自分の頭で考えて」外国語を使えるようになるからにほかなりません。せっかく外国語を学ぶのだったら、そんな喜びを味わえるところまで行かないともったいないではありませんか。
もちろん、日常的な挨拶や基本的な質疑応答ができるようになることは重要です。実際に外国の人と会話して話が通じたときの歓びは格別ですし、それがさらに学習のモチヴェーションを高めることは間違いありません。しかしそれと並行して文法をきちんとマスターしておかないと、ただ断片的な表現パターンが頭の中にストックされていくだけで、いざ何か内容のあることを伝えようとすると、まとまった文章がなかなか組み立てられないという壁にやがて突き当たってしまうでしょう。
「習うより慣れろ」という言葉を前回紹介しましたが、私はその次の段階として「慣れながら習え」と言いたいと思います。「習う」ことと「慣れる」ことはけっして相反することではなく、たがいに補い合ってはじめて効果が出てくるものです。その意味で、文法はむしろ学習者の心強い味方なのであって、けっして「悪」なんかではありません。
「第九回 実用英語と教養英語」はこちら
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