カラオケはリベラルアーツである ― 2つ目の「制約」
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です! |
知識の限界を超えることは単に知識量を増やすことではなく、「教養の果実」を実らせることにほかならないというのが、前回の話でした。経験の限界についても同じことが言えます。つまり、単に経験量を増やすことが問題なのではなく、これを質的に教養の域にまで高めることが重要なのです。どういうことでしょうか。
知識は少ないより多い方がいいのと同じで、経験も貧しいより豊かなほうがいいに決まっています。でも、ただ多くの経験をしたというだけでは、かならずしも人間に幅や深みができるとは限りません。大切なのは、自分が見聞きしたことを呑み込み、噛み砕き、消化し、文字通り「血肉と化す」ことです。
そのためには、やや抽象的な言い方になりますが、自分を常に世界に向けて開いておくことが肝心です。いくらいろいろな人と出会ったり、さまざまな場所を訪れたりしてみても、こちらが殻に閉じこもったままでは、本当に経験したことにはならないからです。
これまで見たことのなかった風景を見て素直に驚き、聴いたことのなかった音楽を聴いて魂を震わせる――こうした感動は、すでにできあがっている「私」をいったん解きほぐし、五感を全開の状態にしておかなければ味わうことができません。
こう考えてみると、街中でも、電車の中でも、あるいは海や山でも、リベラルアーツを実践することは可能であることがおわかりでしょう。もちろん、カラオケボックスでも。
いきなりカラオケボックスを持ち出したのには理由があって、じつは私は自他ともに認める大のカラオケ好きなのです。この1、2年はコロナ禍のせいで、なかなか歌いに行くチャンスがなくてたいへん寂しい思いをしていましたが、カラオケは私にとって、魂の解放をもたらしてくれる、そしてまさに「経験の限界」から自分を解放してくれる、貴重なリベラルアーツの機会なのです。普段の自分を白紙状態に戻して、ひとときのあいだ歌手になりきって歌う高揚感は、何ものにも代えることができません。
つい話がそれてしまいましたが、外国語を学ぶという経験も、たぶん同じことなのではないでしょうか。日頃から外国語を使う習慣のある人は別ですが、私たちの多くは日本語で頭が固まっていて、その枠組みからなかなかぬけ出すことができません。しかし、日本語とは違う単語を使い、日本語とは違う文法に従って言葉を並べていくだけで、目の前にこれまで知らなかった世界が開かれていく。そんな「ワクワク」感は、普段と違う自分を発見できるカラオケと通じるところがあるように思います。
第六回 思考のコピペに気をつけよう ―3つ目の「制約」 はこちら
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