複言語主義をめぐって
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です! 全20回の連載も後半戦。もう一歩「外国語」の存在について考えます。 |
私が現在勤務している中部大学では、昨年5月に「リベラルアーツと外国語」というオンライン・シンポジウムを催しました。パネリストは鳥飼玖美子さん注1、小倉紀蔵さん注2、ロバート・キャンベルさん注3の3人で、当日は多くの参加者を得てたいへん充実した議論が繰り広げられました(その成果についてはこのページ下部にある「お知らせ」参照)。
その中で話題になったことのひとつが、鳥飼さんの提起された「複言語主義」plurilingualismの問題です。これは欧州評議会注4が推進している考え方で、ある国や地域に複数の言語が共存している状態を意味する「多言語主義」multilingualismと異なり、ひとりひとりが母語以外に2つの言語を学ぶことを奨励するものです。その2つは英語を含んでいてもいいし、含んでいなくてもいい。自国の少数言語であってもかまわない。とにかく母語を含めて3つの言語を使えるようになることが、世界の多様性を理解する上では重要なのだということです。
これはまさに前回扱った第二外国語の話に直結する問題ですが、このシンポジウムで私の印象に残ったのは、NHKテレビ・ラジオでハングル講座講師も務めた小倉さんが、昔、当時フランスの首相であったドミニク・ドビルパン氏注5をシンポジウムに招いたとき、複言語主義と多極的世界観のすばらしさを説く彼に向けて、「では母語しか使えない人は価値が低いのだろうか」と、疑問をぶつけてみたという話でした。「英語だけでいい」どころか、「英語さえできない」という人も少なくないだろう、でもそれは果たしていけないことなのか、という疑問です。
小倉さん自身は複数の言語に通じた方なのですが、何かというと「複数の外国語を学んで多様な視点をもたなければならない」と言われる風潮にあえて一石を投じるために、このような質問を意図的になさったのでしょう。
さて、この質問にドビルパン氏はどう答えたか。「そんなことはない、すべての言語の世界は詩の世界なのであって、詩的であるということは多極的であるということなのだ、だからいくつの言語ができるかは問題ではない」というのが答えだったそうです。
なんだか禅問答のようで、すぐには理解できない回答かもしれませんが、とにかく「母語しかできないからといってだめなわけではない」という趣旨は伝わるでしょう。外国語がいくつもできることはもちろんすばらしいことなのだけれども、ドビルパン氏はどうやら、そのこと自体に価値があるわけではないと考えているようです。
では、彼の言う「詩的であること」とはいったいどういう意味なのでしょうか。次回はこの問題をもう少し掘り下げてみたいと思います。
注1 立教大学名誉教授・中京大学客員教授(英語教育学・通訳翻訳学・異文化コミュニケーション学)
注2 京都大学大学院教授(東アジア哲学・比較文明論)
注3 早稲田大学特命教授・東京大学名誉教授(日本文学)
注4 Council of Europe 人権、民主主義、法の支配の分野で国際社会の基準策定を主導する汎欧州の国際機関。1949年フランス・ストラスブールに設立
注5 ジャック・シラク政権下で第18代フランス首相を務めた(2005-2007)
「第十二回 「詩的である」ということ」はこちら
【お知らせ】
昨年5月に中部大学にて行われたシンポジウム「リベラルアーツと外国語」が
一冊の本になりました!
著者司会のもと鳥飼玖美子先生/小倉紀蔵先生/ロバート キャンベル先生を迎え行われた
刺激的なシンポジウムだけでなく、9名の豪華識者による論考も必見です。
『リベラルアーツと外国語』水声社刊
定価2750円 ISBN978-4-8010-0626-3