教養は「量」ではない ― 1つ目の「制約」
近年ビジネス本などでも目にする「リベラルアーツ」の在り方を解きほぐし、「リベラルアーツ」として「外国語」を学ぶ意味を探っていく、東京大学の「教養」を長年見つめてきた筆者ならではの本連載。リベラルアーツという言葉にもやもやしている方も、「英語」だけが外国語で正義なの?ともやもやしている方も必見です! |
前回はリベラルアーツの歴史を振り返って、それが「人間を種々の制約から解き放って自由にするための知識や技能」であると書きました。では、具体的に私たちがとらえられている「制約」にはどのようなケースが考えられるでしょうか。
私は大きく分けて、「4つの限界」を思い浮かべています。すなわち、「知識の限界」「経験の限界」「思考の限界」「視野の限界」の4つです。
今回はまず「知識の限界」について考えてみましょう。
これはごく単純に、私たちが知っていることにはおのずと限りがあるということです。確かに世の中には何でも知っているのではないかと思われるほど博学な人がいますが、あらゆることを知っている人など、この世にいるはずがありません。
たとえば世界には3000以上の言語があると言われますが、すべての言語に通じている人はさすがにいないでしょう。19世紀ドイツの考古学者、シュリーマンという人は語学の天才として有名ですが、それでも話せたのはせいぜい18か国語程度で、それも事実かどうかはあやしいとされています。つまり、私たちは程度の差こそあれ、誰もが「無知」な存在なのです。
昔は物知りであること、博識であることが教養のしるしとされていましたし、尊敬の対象にもなっていました。しかし、インターネットが普及した現在、たいていのことはパソコンやスマホでキーワード検索すればすぐに調べることができます。
その結果、個人が頭の中に知識を蓄える必要性はほとんどなくなりました。現代人いわばネットという外付け脳を手に入れた結果、いつもスマホと一緒に百科事典を持ち歩いているようなものです。今やスマホが文字通りのwalking dictionaryになったと言ってもいいでしょう。
となると、「教養」という言葉が持つ意味も変質してくるのは当然です。人はよく「あの人は本当に教養があるなあ」とか「君は本当に無教養だね」といった言い方をしますが、これは教養というものを「量」としてとらえる考え方です。けれども英語のcultureがcultivateという動詞の名詞形であることからもわかるように、教養というのは本来「耕す」行為を意味するのであって、「多い」とか「少ない」とかいって数値化できるものではないのです。
ますます複雑化する時代に生きる私たちにとって、知識はただ貯め込むだけでは何の意味もありません。「知識の限界」を超えるというのは、単に知識量を増やすことではなく、これを肥料として自分の知性と感性を日々耕し続け、栄養分の詰まった「教養の果実」を実らせることにほかならないのです。
第五回 カラオケはリベラルアーツである ― 2つ目の「制約」はこちら
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