第二十回 〈遊び〉の形而上学――無理由の実現
無理由の実現
〈子ども〉はわかっていることをわざわざする。これが大人にはなかなか難しい。もちろんわかっていることをすることは大人にもできる。たとえば、舌を出せることがわかっていても、何の理由もなしに、現に舌を出してみる大人はまずいない。あえて現に舌を出してみなくても、舌を出すことがどのようなことであるのかは、よくわかっているからである。とはいえ、もちろん、何か理由があれば、大人も現に舌を出す。たとえば、大人が舌を出すのは、辛いものを食べたからかもしれないし、誰かをからかうためであるかもしれない。そんな理由があるときには大人も現に舌を出す。
だが、〈子ども〉は、何の理由もなしに、〈遊び〉で舌を出すのである。もちろん、〈子ども〉もまた、それがどのようなことであるのかは、よくわかっているはずである。というのは、〈子ども〉はしつこく何度でも〈遊び〉でそれを繰り返せるからである。たしかに、初め(の何回か)は、本当に舌を出すとどうなるのかとか、あるいは、本当に舌が出せるのかとかを試すこともあるかもしれない。しかし、〈子ども〉は、現に舌を出した直後に、すぐにまた現に舌を出す。あるいは、むしろ現に舌を出しながら、すでにまた現に舌を出そうとしている。そして、それを何度でも繰り返す。すなわち、〈子ども〉は、それがどのようなことであるのかも、そして、それができることも、十分によくわかっている。にもかかわらず、しつこくそれを現にし続けるのが〈子ども〉である。だから、〈子ども〉がすぐに大人に「見て!見て!」と言うのは。その〈遊び〉の内容を見せているのではなくて、それがどんな内容であれ、その実現を見せているのである。だから、舌を出すことが特に大したことでないことは、実は〈子ども〉もよく知っている。しかし、〈子ども〉は、大人に「見て!」と言って、現に舌を出すのである。つい大人は、出ている舌を見て、「すごいね」とか「面白いね」とか適当なことを言ってしまう。だが、〈子ども〉が見せているのは、舌でなく、実現である。すごいのは、面白いのは、実現である。だから、どんな些細なことでも、それを実現すれば、〈子ども〉は大人に見せてくる。舌を出しても、マカロニで牛乳を飲んでも、ブロッコリーの山の上からブルーベリーを転がしても、「マインクラフト」で辺り一面を火事にしても、とにかく何を実現しても、〈子ども〉は大人に見せてくる。むろん大人は少し当惑する。なぜなら、そうした〈遊び〉の内容は、大人にとっては、あまりすごくはないからである。(たしかにそうした内容は実際によく目にするものではないが、それらがどのようなことであるのかは、現にそれらを為さなくとも、大人にもよくわかっているのである。)だが、すぐに「子どもにとってはすごいのだ」という考えが大人の頭をよぎる。そして、つい大人は「すごいね」と口走ってしまうのである。だが、それらは実は〈子ども〉にとっても――特に何度も繰り返した後は—―大してすごいものではないのかもしれない。にもかかわらず、〈子ども〉が大人に〈遊び〉を見せるのは、実現がすごいからである。大人が驚くべきは、〈子ども〉の実現なのである。
とはいえ、それはもちろん無理由の実現でなければならない。なぜなら、大人もまた、何か理由があれば、わかっていることを現にするからである。すなわち、大人は理由がある実現には驚かない。しかし、〈子ども〉は、わかっていることを、何の理由もなしに、〈遊び〉で実現してしまうのである。だから、現にそれをしたところで、何か(内容として)新たに得られることはないし、そもそも、それ以外の何かのためにそれをするのなら、自己目的的な〈遊び〉にはならない。にもかかわらず、〈子ども〉は、できることは何でも、現に〈遊び〉でやってしまうので、大人はこれに驚くのである。(それゆえに、明らかに危険なことでさえ、〈子ども〉は容易に〈遊び〉でやってしまうのであるが、もちろん、私たちが驚くべきは、それが危険だからではない。)ようするに、〈子ども〉の自己目的的な〈遊び〉とは(形而上学的には)無理由の実現なのである。〈子ども〉は、わかっていること、できることを、何の理由もなしに、ただ現にしてしまうのである。
たしかに(いずれ大人になる)子どもには理由のある遊びもある。たとえば、赤ちゃんが母乳を遊び飲むのは、周囲の音が気になるからかもしれないし、小学生がシールを交換するのは、友達と仲良く交流するためであるかもしれない。(なお、前者と後者はそれぞれ遊びの原因と遊びの目的の例であるが、ここでも、連載の第一回と第二回に書いたことを踏まえ、原因と目的はどちらも理由になると考えている。)だが、こうした遊びはけっして大人を驚かさない。というのは、もちろんそれらの(ような)遊びは、理由があるがゆえに、大人にもできるからである。それらは言わば(人間)社会的な遊びなのである。あるいは、もっと遊びの本質を突いても、同じことが言えるかもしれない。たとえば、西村が『遊びの現象学』で唱えるように[55]、まさに遊びの形(相)を実現するために—―すなわち現象学的に自己目的的に—―遊ぶ子どもはたしかにいるかもしれない。とはいえ、たとえそれが遊びそのものの形(相)であろうと、何か特定の形(相)のために遊ぶのなら、それが遊ぶ理由になってしまうのではないか。たしかに遊ぶために遊ぶということは(大人にも)ありうる。だが、(人間)社会の外、すなわち自然(世界)にいる〈子ども〉は、何のためにでもなく、ただ端的に常に遊んでしまっているのである。そもそも、遊び自体の形(相)であろうと、もし何かのために遊ぶのなら、それは、無理由の実現でなく、したがって形而上学的に自己目的的な〈遊び〉ではない。だから、それは、〈子ども〉だけに遊べる、自然(世界)の〈遊び〉ではない。
〈子ども〉にしか遊べない〈遊び〉は、どんな形(相)にも囚われない。たから、自然(世界)の〈子ども〉は型破りに遊べるのである。もちろん、クッキーを作るには、生地だけでなく、型枠もなければならないように、無理由の実現にも、(無限定の可能性だけでなく、)何らかの形(相)がなければならない。しかし、それは何でもよいのである。つまり、無理由の実現には、何の理由もないのだから、理由となる形(相)はそもそも論点にならない。それは、たんなる実現であるのだから、どんな形(相)であろうと、ただ実現すればよいのである[56]。
わかっていること、できることを、何の理由もなしに、ただ現にしてしまうこと。これが私たちが探し求めてきた〈遊び〉ではないだろうか。すなわち、これが〈子ども〉の本当の〈遊び〉ではないだろうか。というのも、やはり無理由の実現の〈遊び〉は〈子ども〉にしかできないからである。そして、何の原因も目的もないのなら、それはやはり〈遊び〉でしかないからである。
また、もしこれが〈遊び〉でないのなら、これまでに例示してきた〈子ども〉の行為は、一体どういうことなのか、(少なくとも私には)まったくわからなくなる。なるほど、もしかしたら、無理由の実現の〈遊び〉も、カイヨワなら「パイディア」の極に置くかもしれないし[57]、あるいは、ピアジェなら「実践のあそび」と見るかもしれない[58]。しかし、いずれの遊び研究も、科学であるがゆえに、それ(ら)を他のクラスの遊びと因果的に関係づけてしまうのである。――たとえば、「パイディア」は「ルドゥス」と結び付き様々な遊びを生み出し[59]、「実践的なあそび」は「ゆがんだ同化の結果」[60]として「象徴的あそび」に推移していく[61]。――すると、それ(ら)もまた原因や目的のある遊びであることになる。だが、〈子ども〉のたんなる実現の〈遊び〉には、何の原因も目的もありえない。なぜなら、原因も目的も理由になりうるからである。しかし、もしそんなものがあるとしたら、無理由の実現の〈遊び〉に理由がありうることになってしまうのである。
したがって、〈子ども〉ができることを何でも現にやってしまうのは、そのような〈遊び〉で(あると)しか(言いようが)ない。それは、何か特定の形(相)の実現を目指しているわけではないし、何か別の形(相)と結び付くわけでもない。〈子ども〉は、何であれ、わかっていること、できることを、何の理由もなしに、ただ現にしてしまうのである。もしこれが〈遊び〉でないのであれば、〈子ども〉がバケツの水に二度も砂を入れるのは、一体どういうことなのか。切ってもらった爪を吹き飛ばして、「マリオカート」でノコノコを何度も崖下に落として、〈子ども〉は何をしているのだろうか。もちろん、何の理由もなしに、まさに〈遊び〉で実現しているのだ、と答えざるをえない。というのも、私たちはなお〈子ども〉に驚かされてしまうからである。たしかに私たちの探求はそれが無理由の実現であると導出した。しかし、それが無理由の実現であるとわかったところで、それは依然として私たち大人にはできない〈遊び〉である[62]。だから、実のところ、〈子ども〉の無理由の実現がどのようなことであるかは、私たちにはなおよくわかっていないし[63]、それゆえに、たとえば、(バレエもしていないのに)急につま先で立ち始める〈子ども〉を見れば、やはり驚かされて、思わず「なんで⁉」と言ってしまうのである[64]。だが、この「なんで⁉」に私たちは答えることができない。というのも、もしその問いに答えを与えるなら、それは同時に〈子ども〉のつま先立ちの〈遊び〉に理由を与えることになるからである。だが、私たちはそれを無理由の実現と洞察したのである。すると、私たちには、〈子ども〉はできることは何でも〈遊び〉で実現してしまう、としか言えないのかもしれない。これは、私たち大人にはわからない、〈子ども〉の神秘である[65]。〈子ども〉はわかっていることをなぜか現にしてしまうのである。
さて、わかっていることを理由なしに実現することが〈遊び〉であると言えるなら、特に何らかの形(相)のために為されない〈遊び〉があることになる。というのも、それは、何であれ、何かを現にするだけの〈遊び〉であって、するのが何なのかは、すでに(現にしなくとも)よくわかっているからである[66]。また、何かのたんなる実現が〈遊び〉であるのなら、一人きりの一回だけの〈遊び〉もありうることになる。もちろん〈子ども〉たちは皆で何回も遊ぶこともできるだろう。しかし、たんなる実現の〈遊び〉は、どんな形(相)にも縛られないのだから、一人きりですることもできるし、一回だけでやめることもできる。たしかに遊びはそもそも(一回も)しなくてもよいものである。だから、――プロの棋士は、指したくないときにも、将棋を指さなければならないが、――遊びで将棋をする人は、したくないときには、もちろんしなくてよいし、たとえば知的な勝負を楽しみたいなら、他のゲームをしてもよい[67]。とはいえ、もし将棋をしたいのなら、少なくとも将棋のルールは守らなくてはならない(し、おそらく、西村なら、さらに、将棋で遊びたいのなら、遊びのルールないし遊び方も守らなければならない、と言うだろう[68])。さもなければ、将棋を(遊びで)することにはならないからである。だが、無理由の実現の〈遊び〉には、特に何をしなければならないということも、もちろんない。だから、現に将棋のルールを守って将棋をしなくても、代わりに現に将棋の駒でドミノ倒しをしてしまってもよい。それもまた無理由の実現の〈遊び〉だからである。したがって、ただ何かを現にすることだけが、この〈遊び〉の唯一のルール(というか定義)である。それ以外のルールは一切ない。
[55] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,319頁.
[56] もし仮に、何でもないものが実現するのなら、もちろん、何の形(相)もなしに、ただ実現すればよいことになる。とはいえ、何でもないものが実現するとは、一体どのようなことなのだろうか。
[57] カイヨワの「パイディア」の極については第八回の連載を参照のこと。
[58] ピアジェの「実践のあそび」については第九回の連載を参照のこと。
[59] カイヨワ,ロジェ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎幹夫訳,講談社学術文庫,2022年11月1日,67頁.
[60] ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,52頁.強調傍点引用者。
[61] Cf. ピアジェ・J.『遊びの心理学』大伴茂訳,黎明書房,1973年9月20日,52,55,57頁.
[62] というのも、たとえば、私たちが無理由に舌を出そうとしても、もはや、無理由の実現ということを知ってしまった後では、無理由の実現を例証するためにしか舌を出せないからである。
[63] にもかかわらず、どうにかして無理由の実現をわかろうとすれば、わかっている他の何かから因果的にそれを理解するしかないのかもしれない。しかし、それをしてしまうのなら、もちろん無理由の実現に理由を与えてしまうことになるのである。
[64] もちろん、〈子ども〉自身が、自分の〈遊び〉に驚いて、「なんで⁉」と発することはなく、したがってそれに答えることもありえない。だから、〈子ども〉はまさに何の理由もなしに何でも実現できてしまうのだろう。
[65] そもそも—―第十回の連載で論じたように――〈子ども〉とは大人から独立した存在であるのだから、彼らの〈遊び〉もまた大人にはまったく異質のものなのである。
[66] だから、たとえば、ライプニッツの神に対して、なぜ最善の世界を選んだのかとか、これが本当に最善の世界なのかとかを聞くのは、形而上学的な的を外している。そうではなくて、形而上学的に問われるべきは、もちろん、なぜこれを実現したのか、である。
[67] もちろん、他のゲームでなく、まさに将棋そのものをしたいのだ、ということはある。しかし、それが〈遊び〉で将棋をするということなのである。というのも、そのときには、何の理由もなしに、ただ将棋を現に指せばよいからである。
[68] Cf. 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,310-311頁.


