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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第十九回 〈遊び〉の形而上学――神の〈遊び〉

神の〈遊び〉

 目の前に星形のクッキーがある。果たしてこれはどのように作られたのか。生地に型枠が押し当てられたのか、それとも、型枠に生地が詰め込まれたのか。すでにできあがってしまっているクッキーの現物を見ても、もはやどちらであるのかはけっしてわからない。

 どちらであるのかはわからないが、どちらかであるのでなければならない。というのも、さもなければ、そもそも何も実現しないからである。可能なことが現実にならないからである。

 したがって、もし世界に始まりがあるのなら、世界にも二通りの創り方があることになる。すなわち、アリストテレスの神のように、無限定の可能性に現実態の形相を与えるか、あるいは、ライプニッツの神のように、可能的な形相に無内包の現実性を与えるか、である。

 もちろん、世界もまたどちらの神に創られたのかは、まったくわかりえない。どんなに現物に目を凝らして見ても、そんなのわかりっこない。にもかかわらず、どちらかでありうることは、たしかにわかる。というのは、むしろどちらの創り方も私たちにはわかってしまうからである。

 まず、記憶と想起の関係になぞらえるなら[47]、アリストテレスの神の創り方がよくわかる。たとえば、少し読み進めるのを止めて、一昨日の夕飯を実際に思い出してみてほしい。そして、それがどのように思い出されたかを振り返ってみてほしい。おそらくそれは(なぜか)現にいきなり頭の中に浮かんできたのではないだろうか。すると、記憶それ自体はまったく無限定であったことになる。というのも、何が記憶されているのか、つまり何が想起されうるのかは、実際にそれが(なぜか)想起されるまでは、まったく決まっていなかったからである。(特に思い出すのに時間がかかった人はこれを実感するのではないだろうか。)だが、現に一昨日の夕飯に食べたものが想起されることで、そもそもそれは記憶されていたことになる。さもなければ、それは想起されえなかったはずだからである。(だから、どうしても一昨日の夕飯が思い出せなかった人は、そもそもそれを覚えていなかったことになる。しかし、そもそも、何を覚えているのかは、実際に何かを思い出そうとすることなしには、けっして明らかにならないのである。)

 ようするに、アリストテレスの神の如く星形のクッキーを作るなら、すでに(なぜか)星形の型枠を手にしているのでなければならない。そして、もちろんこの型枠はそれ自体で現に星の形をしているのである。だが、それは現実の星形であるが、星形の実現ではない。なぜなら、それは、すでに星形であるのであって、星形になったのではないからである。そうではなくて、星形がないところに星形があるようになるのが、星形の実現である。だから、星形の実現には、星形で(も何形でも)ない生地がなければならない。しかし、その無限的の生地が星形に(も何形にも)なるのだから、それはそもそも星形で(も何形でも)ありえたのである。そんな無限定の生地に星形の型枠を押し付けるのが、アリストテレスの神の作り方である。

 だが、ライプニッツの神の創り方もまた私たちにはよくわかる。なぜなら、私たちは先に想像したことを後から経験できるからである。たとえば今から五分後にあなたは何をしているだろうか。まだこの連載の続きを読んでいるだろうか。あるいは、すでに読み終えたり途中で飽きたりして、何か他のことをしているだろうか。もしかしたら、この先に書かれていることがよくわからなくなって、もっと前に書かれていたことを読み直しているだろうか。それとも、ここに書かれていることに対して何かあなた自身が考えているだろうか。もちろんこれらのうち不可能なことは一つもない。どれも、明らかに想像できるし、したがって可能である。だが、ちょうど五分後に本当に起こるのは、こうした諸可能性のうち、どれか一つだけである。というのも、先ほどの文章の続きを読み、かつ、読まないということは、矛盾を含意し、したがって不可能だからである。さて、そろそろ五分は経っただろうか。そして、あなたは実際に何をしているだろうか。もちろん、あなたがこの文章を読んでいるのなら、先ほど考えた諸可能性のうち、この連載の続きを読んでいることが実現したことになる。だが、それは一体どのように実現したのだろうか。五分前に想像した続きを読むことと、今ここで実際に経験している続きを読むことの間に、何か違いはあるだろうか。内容としては何の違いもないというのがポイントである[48]。私たちは、続きを読むことを想像し、それを現に経験しているのである。(さもなければ、想像した通りであるとか、予想が当たるといったことが、まったく(言え)なくなってしまうだろう。)だから、想像したことが実現しても、内容としては、何も加わっていないし、何も減ってもいない。むしろ、想像を現に経験させるのは、それ自体には何の内容もない、たんなる現実性でなければならない。というのも、何か内容に違いがあるのなら、もはや思い描いたことが実現したことにはならないからである。

 すると、ライプニッツの神のように星形のクッキーを作るには、まずもって様々な形の型枠が用意されていなければならないことになる。すなわち、そこには、星の形はもちろん、ハートの形もある。もっとシンプルな丸い型も四角い型もある。あるいは、動物の型もあるかもしれないし、恐竜の型もあるかもしれない。だが、こうした様々な型のうち、生地が詰め込まれるのは一つだけである。それを選ばなくてはならない。ここで星形が選ばれることはむろん〈遊び〉ではない。というのも、私たちは、何の理由もなしには、何かを本当に選べないからである。つまり、私たちは、それが星形であるから●●、それを選ぶのでなければならない[49]。しかし、形(相)の違いから、どれか一つを選ぶのなら、まさにその形(相)が目的であることになるが、ある形(相)の実現を目指すのは、――現象学的には自己目的的であると言えるとしても[50]、――形而上学的には自己目的的であるとは言えない。というのも、形(相)にとらわれない〈遊び〉を探求するのが、私たちの〈遊び〉の形而上学だからである。だが、選んだ星形の型枠に(のみ)生地を詰め込むのは、まさにたんなる実現の〈遊び〉である。なぜなら、そんなことをしても、その形(相)には何の変化もないからである。その型枠も詰め込まれた生地もいずれにせよ星形でしかありえない。そもそも生地には何の形(相)もない。そんな無内包の生地は、星形の型枠に詰め込まれたら、星形になるだけである。これがライプニッツの神の星形のクッキーの作り方である。

 さて、私たちの世界の創造主がどちらの神であるのかは定かではないが、どちらの神であるにせよ、そもそも神さまはなぜ世界を創ったのだろうか。もちろん、ここでは、それが最善であるからだ、と答えることはできない。というのは、それが最善(の形)であることは、無数の可能な世界の中から、一つ(の形)を選ぶ理由にはなるが、それをわざわざ実現する理由にはならないからである。最善の世界は、実現されようと、実現されずに可能なままであろうと、最善なのである。にもかかわらず、どうしてライプニッツの神はわざわざそれを実現するのだろうか。もちろん神の御心は私たちには知りえないかもしれない。しかし、強いて答えるなら、それは〈遊び〉で実現される、としか言いようがない。なぜなら、このとき神は選んだ形(相)を実現する以外に何もしないからである。つまり、ここで神がするのは、たんなる実現である。だから、何を実現しようとも、その実現によって神は新たに何も得ない(し何も失わない)。すべてを知っている神は、それが最善であることも、それが星形であることも、もちろん実現以前から知っている。しかし、その知っていること自体をそのまま実現するのだから、この無内包の実現はまさに自己目的的である。たしかに、無数の諸可能性の中から、どれか一つを選ぶことには、何か理由があるのかもしれない。たとえば、神の本質が最善であることが、最善の世界が選ばれる原因であるかもしれないし、星形の型枠を選ぶことには、お菓子のクリスマスツリーを作るという目的があるのかもしれない。だとすれば、最善であることや星形であることが、まさにそれを選択する理由になる。だが、そうした原因や目的は、それを選択する理由にはなるが、それを実現する理由にはならない。なぜなら、最善であること(が神の善性に適うこと)も、星形であること(がツリーの装飾にふさわしい)ことも、その実現によって新たに生じることでなく、すでに実現以前の可能性の段階でその内容に含まれていることだからである。(さもなければ、実際に星形のクッキーを作ることなしには、このような話もできないはずである。)だから、神がそれを実現すること自体には、何か理由があるわけではない。それを選択する理由はあっても、それを実現する理由はない。それは、選んだ形(相)そのままの、たんなる実現である。それは、無理由の実現であって、まさに〈遊び〉でしかない。

 何であれ、選んだ何かをただ無理由に実現する。この〈遊び〉のポイントは、わかっていることをわざわざする、ということである。最善であることも星形であることも十分にわかっている。また、それにつながる原因も目的も十分によくわかっている。だから、それをしたところで、何かが新たに生まれるわけではない。にもかかわらず、わざわざそれをしてしまうのである。だが、これは一体どういうことなのか。私たちにはそんな〈遊び〉はできそうにない。だから、私たちには、それがどんな〈遊び〉なのか、よくわからない。

 さらに私たちをよくわからなくしてくれるのは、アリストテレスの神である。というのも、アリストテレスの神にとっては、あらゆる形(相)がすでに現実(態)であるからである。だが、現実であることをどうしてわざわざまた実現するのか。いや、そもそも現実であることがどうして(さらに?)実現できるのか。たとえば、型枠が現に星形であるのなら、それをさらに星形にするということは、一体どういうことなのか。そんなことは私たちにはまったくわからない(し、できそうにない)。だから、――少なくとも私たちにわかるように――星形が実現されるには、無限定の可能性がなければならない。すなわち、(何形でもないので)星形ではないが、星形で(も何形でも)ありうる、無限定の生地がなければならない。さもなければ、――私たちにわかるように――星形は実現しえない。何かが実現するとは、それではないが、それでありうることが、現にそれになることだからである。でも、どうしてアリストテレスの神はわざわざそんなことをするのか。すでに現実であることをどうしてさらに無限定の可能性に実現するのか。もちろん、私たちは、〈遊び〉でする、としか答えられない。なぜなら、神のたんなる実現には、何の理由も(私たちは見いだせ)ないからである。しかも、もし無限定の可能性も神に創造されたのなら、さらに(私たちには)意味がわからない。というのも、それは、現に生地が詰まった星形の型枠があるのに、その生地をわざわざ取り出し押し延ばしたところに、また星形の型枠を押し当てるようなものだからである。これはまったく〈遊び〉でしかない。しかし、私たちにはできそうにない、偉大な〈遊び〉である。

 また、おそらく、たんなる実現の〈遊び〉は、神にできる唯一の〈遊び〉である。というのも、全知である神は遇運と戯れられないからである。なるほど、西村の言うように、私たち人間の「いっさいの遊びは、原理的には、遇運との戯れである」[51]のかもしれない。しかし、神は、何でも知ってしまっているので、(そして何でもできてしまうので、)幸運を期待し遇運と戯れることはできない。「遇運の天びんのゆきつもどりつあてどない遊動を遊ぶこと」[52]は、むしろ不完全な私たちにしかできない[53]。全知(全能)の神にはそれはできない遊びである。だが、神がまったく遊べないわけではない[54]。なぜなら、神は、何であれ、何の理由もなしに、(わざわざ無限定の可能性を創ってまで、)たんに実現してしまうからである。こんな〈遊び〉は私たちにはできっこない。でも、神さまなら、そんな偉大な〈遊び〉ができるのである。

 とはいえ、無理由の実現の〈遊び〉は神だけができるわけではない。というのも、〈子ども〉もまた、何の理由もなしに、ただ何かを実現してしまうからである。もちろん、〈子ども〉は、神と違って、何でも知っているわけでなく、したがって何でも実現できるわけではない。しかし、たんに何かを実現するのなら、全知である必要はなく、まさに実現するそれさえ知っていれば、それで十分なのである。すなわち、〈子ども〉も神も、――わかっていることに大きな差はあれど、――わかっていることをなぜかあえてしているだけである。これが〈子ども〉と神の実現の〈遊び〉である。〈子ども〉は神の如く遊ぶのである。

 だが、わかっていることをあえてしたところで、やはり〈これ〉であるというだけである。すなわち、それは、わかっている形(相)の無理由の実現であるのだから、その形(相)が増えたり減ったりするわけではないし、他の何の形(相)ともつながらない。しかし、それでも、あえてそれをするということは、一体どういうことなのか。アリストテレスの神も、ライプニッツの神も、そもそも何をしているのか。わかっていることをわざわざする〈子ども〉とは何なのか。

 

[47] 記憶と想起の関係については第十七回の連載ですでに触れている。

[48] たしかに、実際に読んでみたら、想像と違っていたということはあるだろう。しかし、実際にどうであったかということは、想像はしていなかったとしても、やはり可能であったのでなければならない。というのも、そもそも可能でなかったら、それは実現しえないからである。そして、それらの間にはもちろん内容ないし形(相)の違いはないことになる。

[49] 前回の連載で確認したように、ライプニッツの神は、この世界が最善であるがゆえに、この世界を実現したのである(Cf. ライプニッツ『モナドロジー』谷川多佳子・岡部英男訳,岩波文庫,2019年4月16日,49-51頁)。

[50] 第十五回の連載で見たように、西村の『遊びの現象学』によれば、「遊びが自己目的的であるとは、(…)遊びが遊び関係と遊動からなる、遊びの構造の実現を目指している」(西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,319頁)、ということであった。

[51] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,319頁.

[52] 西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,334頁.

[53] というのは、西村の言うように、「…人間にとって偶然と見えるものも、神々にとっては、意志であり、さだめであり、それゆえ、宿命の必然である」(西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,330頁)からである。

[54] 西村は、『遊びの現象学』では、神(々)の遊びとしての「世界の遊びの形而上学」については踏み込んで論じていない。だが、もし彼の考える「世界の遊び」が「世界次元における現出そのもの、つまりは、存在者が現前し存在するはたらきそのもの」(西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,330頁)であるのなら、それは私たちの〈遊び〉の形而上学と親和的なものなのであろうか。あるいは、まったく異なったものなのであろうか。

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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