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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第二十一回 〈遊び〉の形而上学――大人と因果

大人と因果

 にもかかわらず、どうして〈子ども〉は同じことを現に何度も繰り返すのだろうか。もしかしたら、同じことでも、現に繰り返すと、何か新たに得ることがあるのだろうか。もちろん、それでは、たんなる実現の〈遊び〉にならない。というのも、もし新たに何かを得るのなら、そもそも同じことが繰り返されたのではないからである。だが、〈子ども〉は、わかっているのと同じことを、わざわざ現に繰り返せるのである。これは一体どういうことなのか。

 なるほど、これが、同じことが永遠に回帰しようとも[55]、「よし!もう一度!」と言える[56]、〈幼な子〉の精神であるのかもしれない[57]。でも、どうして〈子ども〉の精神は同じことの実現を永遠に肯定できるのか。どうして、現にあるのと同じことを、また何度でも現にしてしまうのか。たしかに、同じことを現に繰り返すということは、まさにわかっていることをまたわざわざ現にするということである。すると、これは、結局のところ、たんなる実現の〈遊び〉に他ならないのだから、〈子ども〉は、同じことを現に繰り返すときにも、わかっていることを、何の理由もなしに、ただ現にしていることになる。だが、そのように遊べる〈子ども〉の精神が、私たち大人にはわからないのである。つまり、なぜ〈子ども〉がわかっていることをわざわざ現にするのかが、大人にはわからない。大人はそのように遊べないからである。しかし、それがわからなければ、なぜ〈子ども〉が同じことを現に繰り返すのかも、わからないのである。

 さて、どうして〈子ども〉には無理由の実現ができるのか、この問いに私たち大人は真っ当に答えることはできない。というのも、それは大人には到底できない〈遊び〉であるし、それでも(できないのに)わかろうとすれば、無理由の実現に理由をでっち上げてしまうからである。では、私たちはここで私たちの〈遊び〉探求を諦めるべきなのか。いや、私たちも、できれば〈子ども〉のように、もっと〈遊び〉たい。そこで、上の問いの形を変えて、できるだけしつこく探求を続けてみよう。すなわち、なぜ〈子ども〉には理由のない実現ができるのか、と問うことは控えて、その代わりに、なぜ大人には理由のある実現しかできないのか、と問うてみよう。これなら大人である私たちにも探れそうである。

 とはいえ、この問いについてはすでに答えに心当たりがある。というのも、原因や目的が理由になるのなら、遊びの理由が問われたときに、その原因か目的で答えられるが、大人の精神はまさに習慣によって因果的に決定されるからである[58]。たとえば、「なんで公園に行くの?」と聞かれたら、どうだろうか。おそらく、無理由に遊べる〈子ども〉は、その問い(の意図?)に当惑し、せいぜい「行きたいから」としか答えられない。なぜなら、〈子ども〉はたんに現に公園に行きたいだけだからである。しかし、大人は、「子どもに頼まれたから」とか、「満開の桜を見たいから」とか、つい答えてしまう。なぜなら、大人はすべてを因果的に見てしまうからである。原因か目的がないと大人は現に何もできないからである。

 では、どうして大人の精神はすべてを因果的に捉えてしまうのか。もちろんそれは、大人が、経験を重ね、習慣を身に付けているからである。ヒュームの言うように、原因と結果の間の必然的な結合とは精神の習慣的な移行に他ならないのである。

 

 原因と結果の必然的結合(necessary connnexion)は、一方から他方へのわれわれの推論の基礎である〔と考えられる〕。〔ところが〕われわれの推理の基礎は、〔観念の〕習慣的結合から生じる〔精神の〕移行である〔ことが明らかとなった〕。それゆえ、これら〔必然的結合と習慣的移行〕は、同じものである。[59]

 

たとえば、私たちはどうして、手を叩くと音が出る、と思っているのだろうか。手を叩くことが音の出る原因で(あり、音が出ることは手を叩く結果で)あるからだろうか。でも、どうして、手を叩くことが音の出る原因で(あり、音が出ることは手を叩く結果で)ある、と言えるのだろうか。

 それは、ヒュームによれば、私たちがそのような経験をしてきているからである。つまり、私たちは、手を叩くと音が出ることを、何度も経験している(ことを覚えている)し、その経験に例外はなかった(ことも覚えている)[60]。すると、私たちは、それだけのことで、それらをそれぞれ「原因」と「結果」と呼んで、一方から他方を因果的に推論してしまうのである[61]

 すると、因果的な結び付きは、物事それ自体に実在するものでなく、私たちの習慣から物事に投影されるものであることになる。すなわち、私たち大人は、これまでの習慣から、これまでと同じようにすべてを見てしまうのである。ヒュームは次のように書いている。

 

 要するに、[因果的な結合の]必然性とは、対象のうちにではなくて精神のうちに存在する何かであり、われわれには、対象のうちにある性質と考えられた必然性については、もっとも遠い観念を形成することも、可能ではない。われわれが必然性の観念をもたないか、それとも、必然性とは、原因から結果へ、また結果から原因へと、経験された結合に従って移行するように、思惟が決定されていることにほかならない。[62]

 

もしかしたら、すべてが因果的に必然的に決定されている、と思っている人は、あまりいないかもしれない。なぜなら、因果推論は確率論的に評価されうるからである。だが、因果と結果の結び付きが、決定論的でなく、確率論的である(と考える)のなら、私たちの精神が確率論的に限定される(と考える)だけである[63]。たとえば、これまで一度も逆上がりを失敗したことのない人は、同じようにすれば、次も必ず成功するに決まっている、と思わざるをえない。だが、あるときから、同じようにしているのに、なぜかときどき失敗するようになると、次はおそらく成功するとか、次も失敗するかもしれないとか、確率論的にしか考えられなくなる。しかし、いずれにせよ、私たちの思考が習慣によって限定されることに変わりはない。だから、習慣が深く身に付いている大人ほど、習慣と同じ(確率の)ことしか期待できなくなる。そして、それ以外のことは、思考さえできないのだから、まして実現なんてできるわけがないのである。

 かくして、習慣の身に付いた大人は、これまでの習慣に適うように、物事を因果的に限定して見てしまうことになる。そして、そのような大人が作り上げる(人間)社会は、もちろん因果的である。つまり、そこでは、何をするにしても、それなりの原因か目的が(理由として)求められる。だから、大人は、何か理由がなければ、手を叩くことさえできない。そもそも(人間)社会では手を叩けるところが限られているからである。たとえば、クラシックコンサートでは、演奏中には閉ざされていた、手を叩く可能性が、演奏後には開かれるようになる。なぜなら、大人の精神は、これまでの習慣から、終演の後には(結果として)拍手をするように限定されるからである。したがって、大人の(人間)社会では、何かをしようとしたら、その原因か目的がなければならない。そもそも、それと因果的につながることがなければ、それをする可能性すら目に入ってこないからである。

 だが、(人間)社会の外の〈子ども〉には、習慣なんてないのだから、まさに無限定の可能性が開かれている。つまり、〈子ども〉は、何の原因も目的もなしに、できることを何でも現にすることができる。だから、〈子ども〉は、演奏中に、手も叩けるし、歌ったり踊ったりもできる。あるいは、(準備があれば)お菓子を食べたりゲームをしたりもできるし、(友達がいれば)おしゃべりもけんかもできるかもしれない。また、――これらは私の習慣に限定された可能性にすぎないが、――さらには、本当に大人には想像もつかない可能性が、無限定に広がっているはずである。たしかに、〈子ども〉に何(の形相)が可能であるのかは、何か(の形相)が実現するまでは、大人にはけっしてわからない。なぜなら、大人には習慣に限定された可能性しか見えないからである。だが、習慣のない〈子ども〉の可能性は、もちろん習慣に限定されえない。だから、(人間)社会の外、つまり自然(世界)では、〈子ども〉が、何の因果的な限定もなしに、できることを何でも実現してしまうのである[64]

 すると、因果的な(人間)社会の大人に対して、自然(世界)の〈子ども〉は、言わば因果ゾンビであることになる。すなわち、――意識ゾンビには、誰にでもある(と信じられている)意識体験が欠けているように[65]、――因果ゾンビである〈子ども〉には、大人にはある(と信じられている)因果性が欠けている。にもかかわらず、大人はまさか〈子ども〉が因果ゾンビだとは思ってもいないし、そのことは――薄々気づいてしまった私たちを除いては—―大人にはけっしてばれない。というのも、現に生じることは両者の間でまったく変わらないからである。

 わかりやすくするために、大人と〈子ども〉のどちらにとっても、現に生じるのは、三つの出来事AとBとCである、と仮定しよう。すると、両者の間で現に生じることは明らかに同じである。もちろんそれらが生じる順番もタイミングも同じである。Aの後にBが生じ、Bの後にCが生じる。にもかかわらず、大人にあって〈子ども〉に欠けているものとは、何なのか。まず、どちらにも三つの出来事は現に生じるのだから、現に生じるということは、どちらにもある(と信じられている)ことになる。また、たとえば出来事Bが行為であれば、どちらにも現に生じさせる力がある(と信じられる)ことになる。すると、〈子ども〉に欠けているのは、現に生じさせる力、あるいは実現力としての因果ではない。

 だが、大人にはAとBとCの習慣がある。すなわち、これまでにもAとBとCが何度も例外なく同じように生じたことを大人は経験して(覚えて)いる。すると、AとBとCの間には結び付く力がある(と大人は信じる)ことになる。この結合力としての因果が〈子ども〉には欠けているのである。とはいえ、両者に現に生じることは、まったく同じである。にもかかわらず、どうしてさらに結び付きがなければならない(と大人は信じる)のか。

 たとえば、Aを切った爪があること、Bを爪を吹き飛ばすこと、Cを散った爪を片づけることだとし、まずは現に切った爪が目の前にあるとしよう[66]。すると、大人の精神は、これまでの習慣から限定され、それを吹き飛ばすことをつい考えてしまうかもしれない。もちろん〈子ども〉にもそれを吹き飛ばす可能性は開かれている。というのも、無限定の可能性とは、あらゆる何かでありうる可能性だからである。(だから、もちろん他にも、具体的に何かはわからない、DもEもFも、何でも〈子ども〉には可能であるが、習慣に限定された可能性しか見えない大人には、そんなことは当然わからないのである。つまり、大人は、〈子ども〉に何が可能であったのかを、〈子ども〉が現にしたことからしか、知ることはできない。しかし、それゆえに、両者に現に生じることはまったく同じであり、〈子ども〉が、無限定の可能性に開かれ、無理由の実現ができること、すなわち〈子ども〉が因果ゾンビであることは、けっして大人にはばれないのである。)

 だが、両者には同じBの可能性が開かれているにもかかわらず、大人には現に爪を吹き飛ばすことはできない。なぜなら、大人はさらに習慣からCの可能性も見てしまうからである。つまり、爪を吹き飛ばすことは、それを片づけることにつながる、と大人は考えてしまう。だから、大人はそんなことはできないのである。(あるいは、もし仮にCが何かよいことであれば、もちろん大人もそれを目的として現に爪を吹き飛ばせるだろうが。)しかし、〈子ども〉は、因果的なつながりによって、何かを現にしたりしなかったりするのではない。そうではなくて、〈子ども〉は、何の原因も目的もなしに、ただ現に爪を吹き吹き飛ばしてしまうのである。というのも、習慣のない〈子ども〉の可能性は、まさに無限定であって、それゆえに—―Cも見えているとしても—―Cに限られないからである。

 したがって、〈子ども〉は因果ゾンビでありうる。しかし、何かを現に生じさせる力でなく、何かと何かを結び付ける力が欠けている、因果ゾンビである。だから、自然(世界)の〈子ども〉は、何の因果的なつながりもなしに、できることを何でも現にしてしまうのである。これが〈子ども〉の無理由の実現の〈遊び〉である。

 

[55] Cf. ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』氷上英廣訳,岩波文庫,2001年3月5日,139頁.

[56] Cf. ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(下)』氷上英廣訳,岩波文庫,2001年3月5日,19,315頁.

[57] Cf. ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳,岩波文庫,2000年4月5日,40頁.

[58] なお、ここで目的とは因果的な結果として狙われることである。

[59] ヒューム,デイヴィッド『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,195頁.

[60] 「世界が五分前に始まったという仮説を反証することはできない」(ラッセル『心の分析』竹尾治一郎訳,勁草書房,2004年4月5日,188頁)のだから、大人が本当に(五分以上前から)長い年月を経て色々な経験をしてきている必要はない。つまり、たとえば諸星の「子供の遊び」に登場する大人のように、たとえ本当は色々な経験をしてきているわけでなく〈子ども〉に育てられたのだとしても、まさに色々な経験をしてきた記憶をもつように育てられたのなら、やはり習慣的にすべてを因果的に捉えてしまうのである。

[61] Cf. ヒューム,デイヴィッド『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,109頁.

[62] ヒューム,デイヴィッド『人間本性論 第一巻 知性について』木曾好能訳,法政大学出版局,2011年5月10日,195-196頁.角括弧内引用者。

[63] Cf. メイヤスー,カンタン『有限性の後で—―偶然性の必然性についての試論』千葉雅也,大橋完太郎,星野太訳,2017年2月20日,144頁;成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか――デイヴィッド・ヒュームと哲学する』2022年9月28日,137-138頁.

[64] とはいえ、自然(世界)の〈子ども〉には、一体どこまでが可能なのだろうか。これについては次回の連載で考えてみたい。

[65] Cf.チャーマーズ,デイヴィッド『意識する心:脳と精神の根本原理を求めて』林一訳,白揚社,2001年12月1日,129頁.

[66] なお、なぜ現に爪があるのかについては、ここでは問わない。というのも、それを考えることは、なぜ現に星形のクッキーがあるのかについて考えることと、おそらく同じことになるからである。

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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