コートと法要
早朝からの小雨は本降りに変わった。車内は水分の重みと、おろしたての服が放つ他人の家の匂いにあふれていた。Sally Scottのコートの右の肩口が、縫い目にそってきれいに破れた。返し縫いで処置をしたつもりが、左右の曲線の違いは歴然としていた。着ている自分には見えないのに、いびつな縫い目の形がいつまでも頭から離れなかった。そのとき、とん、と下腹をやわらかくうつ、異物の感触があった。
つり革をにぎるわたしの前に座る人の、傘の柄がふいにその手を離れて、わたしの腹にあたったのだった。うたたねをしていた前の席の男性は恐縮した。人が集まる公共の場で、他人との境界線は無意識に引かれている。たまさか自分の身体に触れた傘の柄は、別世界から現れた未知の道具のような驚きを、わたしに与えた。と同時に、わたしはこの感覚におぼえがあるとも思った。下腹をうつ異物の気配は、胎動にかすかに似ていた。胎動のようなごく個人的でデリケートな感触が、簡単に再現されたことにも少し驚いた。
子どもが生まれてから叔父、祖母、祖父が相次いで亡くなった。生まれると死ぬ、そうやって命のつじつまを合わせると耳にしたことがあるが、死ぬ人の数が多すぎる。今日は祖母の三回忌法要が営まれる。本当は子どもも連れて行くはずだったが、急な発熱でかなわなくなった。近くの親族にあずけ、わたし一人で参列することになった。
祖母は1940年、昭和15年に品川へ本屋を開業し、戦争による休業を経て、2015年まで店を続けた。店を閉めたとき、祖母は93歳だった。店を閉めてからは施設に入居し、2年後に亡くなった。
3坪ほどの小さな本屋は、わたしが物ごころついたころにはすでに、コミックと雑誌で占められていた。週刊少年ジャンプが歴代最高部数を発行する、そのはるか以前に祖母は「これからはコミックの時代」と見抜き、品ぞろえを漫画中心に変えた。わたしは時勢に敏感な祖母の恩恵を最大限に受け、売場から好きなように漫画を抜き出しては、通りからまる見えの茶の間で、むさぼるようにそれらを読んだ。これがどれだけ特別な体験だったかを自覚するのは、かなりあとのことだ。この小さな本屋のことを、そもそもなぜ祖母が本屋をはじめようと思ったのかを、わたしは祖母に聞いておかなくてはいけないのではないかと気づいたころ、すでに祖母は老いて、遠くなった聴覚が日常生活に支障をきたしはじめていた。わたしは祖母のひらいた小さな本屋のことを、何ひとつ聞くことはできなかった。
子どもが生まれてから数度、祖母の本屋を訪れた。祖母は孫の名前を間違えても、なぜか曾孫の名前は間違えることがなかった。いまでも祖母しか呼ばない独自のニックネームで、祖母はわたしの子どもを呼んだ。
祖母がわたしの子どもを呼ぶとき、わたしはにわかに羽織った母という役割を脱いで、自分の子とともに、祖母にとっての大きな子どもになったような気がした。わたしも子どもも、祖母にとっては同じように小さな存在であることが心地よかった。本当はわたしの子どもにも、祖母の本屋で本を選ばせたかった。
列車は土曜だというのにますます混雑し、人いきれで窓ガラスがくもりはじめた。着なれないロングコートが、水分でどんどん重みを増した。
子どもを生んでから5年ほど経つが、母として語れることなど何ひとつない。保育園への行き帰りに触れる季節や、テレビが発する単語、周囲の大人の気分の浮き沈みから、子どもは驚くほど多くの情報を吸収する。壁に貼られた五十音表を横に読んで、意味不明な呪文を唱えているかと思えば、坂道での自転車の練習を、いったいどこで覚えたのか、突如として〝愛される試練〟などと名づけていて面食らう。〈親があっても子は育つ〉という坂口安吾は正しい。彼女に対してなにができるのか、わたしはまだどこかではかりかねている。
母になることを望んでいたか、望んでいなかったのか、いまでもよくわからない。子どもがいなくてもいいという生き方をしていたはずなのに、年齢がリミットに近づいてきたとき、このまま子どものいない人間としてふるまう覚悟が、自分にはまったくできていないと気がついてしまった。子どもがいないことに意味を持たせようとする自我に、自分がどんどん潰れそうになった。子どもをもたなかったことを、そのとき目の前にいる恋人のせいにしながら、生きるかもしれないことが怖かった。
子どもをもったことで、わたしはわたしをがんじがらめにするあの自我から解放された。母という役割はたしかにわたしをしばるものでもあるけれど、歪んだ自我を寛解させるという予想外な効用もあった。目の前にいる小さくて無力な生き物の前では、こねくりまわしたわたしの自我など無意味だった。このような母としてのありようは正しくないかもしれないが、子どもをもったことで、わたしの心身はきわめて健やかなものになった。
いつもは子どもとつなぐ手のひらが、空白のまま目の前にあるとき、いったい自分は他人からどのように見えるだろうと考えることがある。隣にまとわりつく子どもがいなくても、わたしは母親に見えるだろうか。
祖母は晴れ女だったので、ひょっとすると法要のうちに雨が止むのではないかと思われたが、昼すぎて雨足はますます強くなり、墓前での法要は読経もそこそこに終わった。
前回は子どもとふたりでした焼香を、今回はひとりでしたら、間違って灰をつまんでしまった。白くなった指先を、御香といっしょにこっそり払った。
コートの歪んだ縫い目はのちにほどき、近くの仕立屋に修繕をお願いした。なぜコートを渡したのかと子どもが聞くので、破れたコートを自分で直せなかったから、お店の人にちゃんと直してもらうことにしたんだよ、と言うと、その店の前を通るたび、母がコートを自分じゃ直せないから、ここでお店の人にお願いしたんだよね、と話すようになってしまった。戻ってきたコートには、まだ袖をとおしていない。縫い目も見ていない。
『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子
言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。