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何を読んでも何かを思い出す

川と恋人

 中学校の美術室で『泥の河』を観たことがある。宮本輝原作、小栗康平監督のモノクロ映画だ。授業の課題だったか、所属する美術部の活動の一環だったか、小さなテレビの周りに四角い木の椅子を集め、ビデオデッキにカセットが仰々しく吸いこまれると、粘体のような水面が揺れる白黒のタイトルバックに、自分の五感が反転したような気がした。見慣れない白黒映画に、なぜ中学生の自分が惹かれたのかわからない。対岸にもやう廓舟(くるわぶね)と加賀まりこの濡れた黒目のイメージがいまも鮮明で、川を見るとこの濃密な映画の各場面と、襞の光る自分の制服のスカートが、かすかな背徳感とともによみがえる。抽象画を専門にしていた美術教師は他にも教室で、『ライムライト』や『アラビアのロレンス』を見せてくれたが、何を思ってそれらの映画が選ばれたのか、ひょっとしたらそれは教壇で語られたのかもしれないが、いまの自分には思い出せない。

 職場へ向かうバスが、川を三度わたることに気がついたのはつい最近のことだ。バスは大きな川との合流点から、支流をちょうど遡るように走る。車窓からやがて川は見えなくなるが、忘れたころに小さな橋をこえ、しばらくするともう少し大きな橋をこえ、よく見るとどちらの橋にも同じ川の名が記されている。地図で調べてみると、川とバス通りがゆるやかな三つ編みのように、交差し合いつづいているのだとわかった。
 そして合流点からほどなく離れた場所で、いつのまにかはじまった工事により、支流へ流れこむもうひとつの川の存在に気づいた。バスは〈河川の整備をおこなっています〉という青い字の看板をすぎて、おそらく工事中の道の下でちょうど合流する川をわたる。右側の車窓に見えた川と、左の車窓から見える川とで川の名が変わる。

 三つ編みがほどけるあたりから本流までの川沿いを、恋人と歩いたことがある。はじめて歩く道だった。ひとりとひとりの内側にはいつも夜がある。深夜に知らない道を歩くとき、互いの内にある夜は無限に伸びるようで、はじまりも終わりも意味をうしなう。
 本流のそばまで来たところで、本当にはじまりも終わりも見えなくなった。そこに横たわる闇の濃さだけが広がる川幅をおしえた。遠く高速道路につらなる車の灯は、繊細なアクセサリーのようにかろうじて空を縁どっている。距離は高速道路の光とかすかな水音から感じられるのみで、自分も恋人もひとしく闇にまぎれた。
どこまでも暗いというだけなのに、身体なのか意識なのか、気体なのか液体なのか、生きているのか死んでいるのか、わからなくなった。もしかすると狂気とはこのような闇のことをいうのかもしれないが、このまま闇がつづくなら、これを狂気と呼ぶ人も正気と呼ぶ人も存在しないのだから、このままでいいのだと思った。水音が身体にまぎれこんだ。

 恋愛とは、人を好きになることとはなんだろう。あなたがひとりのとき、ひとりのあなたの内にある夜を見てみたいと思う。そしてできれば、わたしの夜も見てほしい。ふたりではない、ひとりとひとりのままで、あなたの夜を見たいのだ。ただそれだけのことが、現世ではなかなかかなわない。

 川沿いを歩いていて、かつて恋人に謝られたことがある。バックパッカーの恋人が帰国した際、とつぜんいなくなった彼についてはからずも友人たちに説明することになったわたしと、何も言わずに旅立った彼を苦々しく思ったかもしれない友人たちに対する謝罪だったらしいが、強い憤りをおぼえた。
 あなたの不在だけが、わたしや彼らの時間を支配しているかのようなふるまいはやめてほしい、それではまるであなたが主人公みたいじゃないか、と啖呵を切った自分に、自分が少し驚いた。川岸で伸びるばかりの雑草が、素足にちくちくと痛かった。

 その恋人とは10年近く交際し、好きな人ができたと言われ別れたが、まもなく復縁を迫られた。同棲していた部屋を飛び出し、ただ人間らしく住めればいいと決めたひとり暮らしの部屋は、思えばフェンスに囲まれた川の近くにあった。水音はしなかったが、代わりに対岸にある幼稚園から、日中は子どもたちの声がにぎやかに聞こえた。
部屋にやって来た恋人が、ついふた月ほど前にふたりの部屋から持ち出したわたしの本棚を眺めるのを見ながら、かつてあんなにも憧れた目の前の恋人の存在が、どんな宇宙より遠いと思った。恋人の肩ごしに見た闇は、どこにもたどりつかないただの薄い闇だった。戻れなかったとき、自分の強さを意識した。ここでいう強さとは、ひとりでも生きられるとか強情とかそういうことだけではなく、自分のなかにある激しさと、おそらくその激しさの前でだけ、わたしはわたしをゆずらないだろうということだ。その後もいろんな部屋に暮らしたけれど、川の近くに住んだのはあの一度きりだ。

 尾名川という架空の川の流域に暮らす人びととその日常を描いた、堀江敏幸の連作短編集『雪沼とその周辺』には「河岸段丘」という作品がある。河岸段丘の一帯、川面に近い不便な傾斜地で製函工場を営む〈田辺さん〉と旧い裁断機をめぐる佳品で、この小説ではじめて河岸段丘という言葉を知った。
かがんだんきゅう?と自分には耳慣れない単語を問うたとき、河岸段丘のある町で育った恋人は、それがどのようなものかを宙に指で見えない図を描いて説明した。一連の物語は河岸段丘のある町に住みつづける人、出ていく人、戻ってきた人を書き、それぞれがそれぞれの角度からこの土地にささやかに光をあてる。河岸段丘を実際に目にしたとき、これがあの河岸段丘かと思ったが、いままっさきに思い出すのは、想像の土地に建つ工場で暗いきらめきを放つ機械と、自分の知っている景色を正確に伝えようと、空でせわしなく動いていた丸い指先である。

  

 

 

 

 


『何を読んでも何かを思い出す』  大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。現在『本の雑誌』にて、「新刊めったくたガイド」の、日本文学の紹介ページを連載中。

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