曇天とイヤホン
皮膚という皮膚がまるで裏がえしになるように、冬のはじまりの冷気というのは唐突に、体の熱をいつしか剥ぎとっている。唐突さにうろたえながら、数枚の重ね着に甘やかされてみるけれど、初冬の風は容赦なくわたしを素肌にし、もはやむき出しの輪郭でこの季節と対峙するしかないのだ、と思える単純さを存外嫌いでもない。
とりわけ冷えた日の曇天が好きだ。晴天の眩しさにごまかされることもなく、雨の煩わしさにまぎれることもなく、曇天はただ自らの思索をほの暗い指でほどよくなぞる。灯りを点けずにひとりの部屋で、夜に向かって時間が徐々に満ちるのを見る。
名前のわからない落葉樹は黄葉し、葉の重なりの向こうに薄い夕焼けがのぞく。横断歩道の白線はその白さを増し、ベランダの物干し竿と物干し竿にしがみついた洗濯ばさみは、宵闇に反転して影になる。階上の部屋は朝からモデルルームとして開放されていたけれど、誰かが訪れた気配はない。どこからか水音が聞こえる。
たまに音楽なしでイヤホンをつける。擬似的に身体を睡眠状態にしたいほど疲れているときなどで、いわば耳栓の役割だが、耳栓ほど世界から塞がれた感覚もなく、体裁も保たれる気がする。
イヤホンごしに聞くアナウンスや列車の通過音は、水の中のように手さぐりで遠い。反対に自分の体の音、呼吸や欠伸や関節音などは頭蓋骨に高い周波で響き、自分の体のたてる音の大きさに耳が驚く。
加齢というのは、身体の存在感がいや増していくことなのだと感じるようになった。ちょっとした身体の違和感が、それこそ全身に反響するように広がる。同じ動作も以前はなんでもなかったのに、どうやら自分のいまの体はこのふるまいに耐えられないらしい、と耐えられなくなってからはじめて気づく。
イヤホンで体の声を聞いている。いま耳にしているのは、いったいだれの鼓動だろうか。
大島弓子『夏の夜の獏』は、精神年齢のみ成人してしまった8歳の走次の目で、精神年齢の世界を見る漫画だ。精神年齢の目で見ると走次のまわりの人間は、両親も兄も教師もほとんどが子どもである。赤子と化した祖父の介護者兼ハウスキーパーで、夜学生の青井小箱という女性だけが〈実年齢も精神年齢も同時にすこやかに発育した二十歳〉として描かれ、走次は彼女と彼女と過ごす時間を好んでいる。
ある日走次が学校に提出した作文があまりに大人びていたため、教師に盗作とみなされ書き直しを求められる。呼び出された母親もさして異を唱えず、とにかく自分の前で作文を書き直すよう走次に迫る。母の前で書き直した作文を提出しても剽窃の疑いは晴れないのだが、輪廻転生について記したその作文をたまたま目にした小箱は、頬を紅潮させて走次に語りかける。
すてきじゃない!!
大きくなったらなんになるの
文章家になってよ
そしてもっともっと
楽しみをあたしたちに
わけてくれない!?
走次は小箱のこの言葉を一晩中〈明け方には意味がすりきれて〉しまうまで、脳内で再生する。物語全体から眺めればエピソードのひとつに過ぎないのだが、言葉が他人に届いたときの喜びと、言葉の意味が摩耗するほどに幾度もめぐる高揚とが、まっすぐにさしだされていて読むたびにうたれてしまう。
小箱が手にしているすこやかさとはなんだろう。それは肉体の加齢とは切り離されているものなのか響きあうものなのか。肉体が体験として、視覚が映すものや触覚が受けとるもの、自分の外側にあるものを五感から精神へと取りこもうとするとき、その媒介として言葉の力が必要であると感じる。
小説を読むとき、物語を読んでいるというよりはそこに書かれた言葉と、言葉のあぶり出す風景を見ている。
星野智幸『未来の記憶は蘭のなかで作られる』(岩波書店)は、デビュー翌年の1998年から2014年までに発表されたエッセイを〈編年体ではなく、年代と逆順に並べ〉た一冊だ。何気なくめくったときは年代順に編まれていると思いこみ、終盤に収録された「絶対純文学宣言」に手がとまったのだが、最近書かれた文章ではなく、99年に書かれたものであることに後から気がついた。
〈言葉でも、信用が完全に崩れると、恐慌と同じようなことが起こる。お金が使いものにならず現物しか用をなさなくなるように、言葉が何も伝えなくなるので、言葉をすっ飛ばし「現物」的な行動に走るのである。〉
まるで現状を照らすようだが、すでにこの文章が綴られてから20年が過ぎ、より状況は悪化しているように見える。
〈言葉への信用がないに等しい中で、小説が危機に陥るのは当然である。ジャンルとしての小説が危ないという話はどうでもいいが、私は言葉が機能していない事態には抵抗したい。言葉が通じなくなったら、私たちは孤立して生きるしかない。皆が本当は孤立しているのに、その事実をとりつくろって、「現物」的な行動への衝動を覆い隠して、生活しなければならない。〉
〈そうならないためには小説(「絶対純文学」と呼んでもよい)が必要である。文学作品以外に、言葉の信用システムそのものを問い直すメディアはないからだ。小説の言葉は形式化した日常の言葉とは違うので、必ずしもわかりやすくはない。だから、読み解くための体系を自分で見つけなくてはならない。手探りで相手の言葉に自分の言葉を合わせていくこの努力が、すなわち信用を作り上げることなのである。〉
小説の言葉、漫画の言葉、身体の言葉、さまざまな言葉に耳をすませ、自分の言葉をそこに合わせるとき、それはどうしても小さな声になる。相手の言葉をかき消したくないからだ。そこにはともすれば聞き逃したままの、自分の声も混じっているような気がする。
そしてこれと同じことを、書店員の仕事で自分はしているのかもしれない。
本という商品を並べているというより、言葉そのものを並べていると思っている。本の言葉に自分を合わせようとすると、物としての本の完璧なたたずまいや、端正な文字組の静けさも含め、本の声を邪魔しないようにという思いがあふれてしまい、ともすれば棚の前で立ちつくす。目の前の本がどうすれば語りはじめるのか、あるいはよりのびのびと語りあうためにはどの棚で、どの本と呼応させるべきなのかをいつまでも思案してしまう。
書店を訪れて本を手にとることも、ページをめくって本の言葉を読むことも、〈わかりやすくはない〉かもしれない。けれどもできればあなたの力で、本の言葉に触れてほしい。わたしはそのために日々、息をひそめて棚を作る。棚という身体をとおして、知らないあなたと話をしたいと思っているのだ。できるだけ小さな声で。
『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子
言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。