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何を読んでも何かを思い出す

夜とローラ

 眠ることとは、日々の小さな死だと思っていた。いまも少しそう思う。できれば眠らずに、夜の輪郭をくりかえしなぞっていたい。
 眠りたくないのは、死にたくないと思うことと同義だろうか。死にたくないと思うのは、弱いことだろうか。
 この土地の夜はつねに暗いので、昼間には見えない精神の構図がときおり見える。明日つくはずの嘘。欲望と善悪。身体と言葉の乖離、あるいは一致。
 死にたくないと思うのと同じくらい、死んでほしくないと願うことが、どうすれば届くだろうか、あなたに。
 身体を横たえて、意識がなくなったあとの世界を見るように、あらゆる闇のかたちを凝視していると、ぱきん、とか、ぱん、とかいう破裂音が、小さな部屋のどこからか聞こえることがある。ああ世界が寝返りをうったのだ、と思う。今日は世界より、わたしのほうが夜更かしだ。

 大きな霊園のそばに暮らしていたことがあった。霊園に門扉はなく、誰でもいつでも通りぬけることができた。駅から部屋への近道でもあり、毎晩のように墓の間を歩いた。
 連なる高層ビルの灯りで仄明るい夜空を、イチョウ、ケヤキ、エンジュ、ムクノキなど、霊園をかこむ木々が縁どっていた。足元のごろりとした感触に、すわ墓石かと飛びのくと「山田錦」のラベルの空き瓶だった。酒盛りをする輩や、ゴルフの素振り、発声練習をする人などがどこかしらにいて、深夜でもあまりこわくなかった。風の強い日は、あちこちで卒塔婆が軽やかに鳴った。
 ずんずんと歩くうち、頭の中が静かになる。言葉が身体を離れ、いま見えるもの、聞こえるものをただ通過するだけの身体になる。なんてうるさい場所にいたのだろうと思う。言葉のないところに死が浮かんでくる。足の裏につたわる草の感触の、さらに深い場所に死がある。死は静かな土にうもれ、いまこの身体は無数の死の上に立っている。身体は地上の景色を眺めたり、歌を聞きとり、口ずさんだりする。身体は地上を走りまわり、手をのばしたり、触れたりする。土と空の間の少しの隙間にこの身体があることが、生きているということなのだ、とふたたび言葉で思う。

 部屋の灯りを消し、寝しなの子どもがふと、自分の名前はローラがよかった、と言いだした。TVアニメにそんな名前の登場人物がいたかもしれないなと思いながら、そうかそうかと頷いた。いまの名前も好きだけど、いちばん好きなのは本当は「キリ・ローラ」だ、とファミリーネームまで考えていた。キリというファミリーネームが実際にあるかどうかは知らないが、桐かもしれない。
 名前を嫌だと思ったことはないけれど、別の名に憧れたことはたしかにある。わたしが幼少のころはまだ、末尾に「子」の付く名前が女子の多数を占めていたので、子の付かない名前に憧れた。香緒里、和花、涼奈など。
 同級生の生久実ちゃんには海外で仕事をしたいという目標があり、近所のECCジュニアにかよっていた。自宅で教室を運営する、いわゆるホームティーチャーに習っていて、民家の表札の横に小さく看板が出ていた。
 英語にはあまり関心がなかったが、教室だけで呼ばれる外国風の名前があると聞き、俄然興味がわいた。教室に入会するとして、どんな名前で呼ばれることになるのか、生久実ちゃんといっしょに放課後、尋ねに行った。庭の水やりをしていた先生は困ったような顔で、マリアかな、と言った。どんな名前がよかったのかもわからないが、少しがっかりした。生久実ちゃんがどう呼ばれていたかは思い出せない。

 伊藤比呂美の『道行きや』(新潮社)と、金原ひとみの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(ホーム社)には、ともに外国のスターバックスで名前を聞かれることと、そのときの様子が綴られる。
〈カリフォルニアのスターバックスでは、複雑なものを注文すると、名前を聞かれる。そのとき、ヒロミなんて言ったら、相手に通じさせるまでに五分かかる。〉(『道行きや』)
〈短い金髪をドレッドにした女性店員に「名前は?」と聞かれヒトミと答え、眉間に皺を寄せた彼女に、アッシュイ、テオ、エムイ、と続けた。彼女はどれだけ私の注文を聞いても名前のスペルを一向に覚えてくれない。〉(『パリの砂漠、東京の蜃気楼』)
 同じ時期の刊行であることも含め、この二冊の随筆集は奇妙に呼応する。似ているというわけでもなく、ただ詩人と作家が発する感情の多さのようなものが、言葉の奥底で反応し光り合うのを、たまたまこの二冊を連続して読む者だけが感知するのかもしれない。
 前者のエッセイはつづけて、西洋の言語に通ずる響きをもつ真ん中の娘の名前を、長女と末っ子がスターバックスで、〈しれっと〉名乗る場面を書く。
〈Kと名づけた娘が、名を尋ねられて、しれっと妹の名前を名乗った。思わずぎょっとして娘を見返してしまった。それから次はTと名づけたはずの妹が、またもやしれっと姉の名を名乗った。/姉妹三人で一つの名前を、あるいは目玉を使い回す、どこかの神話にこういう存在がいたな、とその場に居合わせるたびにそう考えた。〉(『道行きや』)
 
 子どもの名はわたしが付けた。字画に人生が左右されるとも思えないが、どうせ付けるなら、と折に触れて姓名判断サイトをひらくとき、名付けという行為の重みにも、次から次へと字画のいい名前を提案してくるサイトの手軽さのどちらにも、実感をもつことはできなかった。
 ただ、皮膚が引き攣れるほどに腹を蹴飛ばしてくる、異物の存在の感覚だけがたしかにあって、その存在に名前を付けようとすることは、自分にだけわかる呪文を作るようなものだった。それくらいの近さで遠さだった。
 やがて登場したあたらしい生きものは、圧倒的な現実をひたすら日常にもたらし、わたしはふたたび現実を通過するだけの身体になった。

 何かに、誰かに対して正しくあるために、言葉で表現することを希求しながら、つねに正しくあろうとする自分の言葉に、わたしはもう長いこと、どうしようもなく疲れていた。逃げ方もわからないまま、がんじがらめにからめとられていた。
 
 子どもは名付けから自由な場所で、あたらしい名前を考えている。正しさから少しだけ逃れた自分は、こうしてまた言葉に手をのばす。正しさを補強するためではなく、ありとあらゆる自分に、ありとあらゆるあたらしい名前を付けるために。

 

 

 

 

 

 

 

『何を読んでも何かを思い出す』  大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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