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何を読んでも何かを思い出す

BeBeとSHIPS

 わたしの母は洋裁の学校を卒業したのち、百貨店の呉服売場に勤め、結婚により数年で退職し専業主婦となったが、わたしが二十代で実家を出るまで、和室には作業台付きの大きなミシンが鎮座していたし、丸みを帯びた古い籠のなかには用途のわからない裁縫道具がたくさんおさまっていた。小ぶりの洋菓子の缶にはさまざまな種類のボタンが入っていて、たまに手にすると存外重く、ガシャガシャとけたたましい音がした。

 通学バッグや巾着袋などはあたりまえのように手づくりで、母デザインの刺繍やアップリケが付けられていた。ダンガリー調の生地に靴型のアップリケが縫いつけられた、上履き袋の記憶だけがうっすら残っているけれど、他の持ち物のことは思い出せない。買っただけの道具箱では味気ないからと、箱の表面に和紙を貼ってくれたことは覚えている。学年が変わると擦り切れた和紙を貼り替えるので、雑貨屋で和紙の柄を選ばせてもらえるのがうれしかった。

 

 この春から小学校へ入学する子どもの入学説明会で、配布された「入学のしおり」をめくり、ページにおさまらないほど羅列された必要品のリストを見て気が遠くなった。

 用意すべき物品には、手提げ袋、毎日洗う給食袋、週一回洗う帽子袋、体育着袋、上履き袋など袋ものの指示が細かく示されており、袋が床につかないよう紐から底までの長さは約60㎝以内など、読んだ端から忘れたいほどの情報量である。必要なのはもちろん袋だけではなく、大量の文房具のなかには色鉛筆やクレヨンなどがあり、その1本1本に記名をする必要がある。

 感染症による緊急事態宣言再発令のさなか、きりりと冷えた体育館で説明会は開催された。マスクと消毒必須、児童一名につき保護者一名の参加、パイプ椅子は1メートル間隔で設置され、全開の窓を吹き抜ける北風に、誰一人上着を脱ぐことができなかった。参加者は女性が圧倒的に多かったが、ちらほらと父親らしき男性の姿もあった。例年なら時間をかけておこなうのだが、感染症対策の一環でとにかく最重要事項だけを、短時間で説明しますということで、かじかんだ手でひたすらメモをとるうちに説明会は終了した。

 説明会の翌日ふたたび「しおり」をひらき、目を逸らしたくなるのをこらえながら、自分が子どもだったころ、母が手づくりで用意してくれた品品の、ほとんどを思い出せないことにふと気がついた。

 

 もはや手づくりを強要される時代でもなく、手づくりを信奉するつもりもない。そもそも裁縫の技術を習得した母をもち、自宅には立派なミシンもあるというのに、娘の自分はミシンが苦手で、母のミシンには一度も触れたことがなかった。

 思うと母は裁縫にしろ料理にしろ、かなりの完璧主義者だった。家の内は何もかもが母なりの法則のなかに成立しているように思え、腕のない自分がそれを共有することは難しかった。同居していたころ、わたしは家事をほとんどしなかったが、ミシンも台所も母の領分であり、素人の自分には侵すことのできない聖域のように見えた。あれらは母の自己表現だったのかもしれないといまなら思う。家族に対する愛情表現という捉えかたも間違いではないが、愛情の発露というよりは、本能的に自分自身を発露する場を厳しく、ときに激しく求めていたのではないか。

 長らく自分は父に似ていると言われてきたが、こうして言葉で母の姿をなぞっていると、文章を綴りながら一言一句妥協ができないところや、頑なに自分を押しとおすところは、より母に似ているかもしれないと感じる。時代が求めるまま、おそらく迷いなく母は専業主婦の道を選んだが、母と同じ立場になってみてはじめて、母親という役割だけでははみ出してしまう自分がいると気づく。母の作る縫物の美しさや料理の端正さを思うとき、母がそこにとじこめた母自身を想像する。

 

 行司千絵『服のはなし 着たり、縫ったり、考えたり』(岩波書店)を読みながら、思いがけず母のことを考えていた。

 新聞記者をしながら独学で洋裁を学び、自身や家族、友人のために服を縫ってきた著者が、服とともにある「わたし」の輪郭を幾度もなぞりながら、服をつくるということをとおして得た気づきの数々や、それぞれの人にとってのそれぞれの服の在りかたを、丁寧に綴った一冊である。

 広く浸透したファストファッションと、その裏側で大量に処分されつづける服。素材には産地があり、命があるということ。経済活動のなかでファッションとして消費される服と、母や祖母がつくってくれた服のように、〈わたしもただ在る服を目指してつくりたい〉という著者。すべてが交わりそうで交わらないまま、ただ一目一目を丹念に編むように言葉がつみ重なる。その誠実な揺らぎは、あとがきにそのまま記されている。

〈自分にできるのは、幼少期から現在まで着てきた服の体験や、手芸や洋裁をしたときに思い、考えたことをたどること。目の前の出来事を見つめて、市井の人や専門家に会ってはなしを聞き、あらたに得た視座でものごとを考えることだった。〉

 そして同じあとがきで著者の考える服というものの意味が、さりげなく提示される。

〈服は体を外の世界から保護してくれる大切な存在だが、それだけではない。装いの楽しさを味わえ、容姿やセクシュアリティ、ジェンダーのありようを意識させ、ときには着る服で心の状態までうかがい知れる。材料を通して自然や環境について思いをはせ、縫製や販売方法の視点に立つと働き方やお金の意味について考えることができる。〉

 ミシンは苦手、服は縫わない、縫うつもりもいまのところない、裁縫は好きでもないし嫌いでもない、という自分がこの本を手にとることには逡巡があった。手づくり礼賛の本なら読む資格はない。それでも何かが気がかりで手にとっていた。

 服をつくったことはないけれど、自分で思うよりもずっと、装うことがわたしは好きであると、『服のはなし』を読んで気がついた。これについてもかなりの部分を母から受け継いでいる。子どものころわたしが着せられていたのは、母が選ぶ「BeBe」の服が大半で、どんな服でも縫製の良し悪しはかならず確かめていた。

 子どものころ着た服で覚えているのは、小学校3年生で転校をした際、転校初日に黒いビニール地のブルゾンを着せられたのだが、自己紹介のあと近くの席の男子に、「ギャングの娘が来た」とからかわれたことだ。ブルゾンはもうないけれど、ブルゾンの下に着ていた、灰色地に三角の模様の入ったBeBeのツーピースは手元にある。おそらくわたしの子どもは「ちょっと地味」とかなんとか言って、着ないような気がする。

 もうひとつ覚えている服は、「鋏とサンルーム」で登場した本屋の元同僚が、自分より大塚さんに似合う気がする、と譲ってくれたSHIPSの紺のジャケットだ。薄手のピーコートスタイルで、自分では間違いなく買わないタイプの上着だったが、彼女の言うとおり、不思議と自分のどんなコーディネートにもしっくりとはまった。長年着つづけて擦り切れたので処分してしまったが、取っておけばよかった、と少し後悔している。

 

 母がわたしに着せていた服、あれらも母の表現だったのだろうか。母の選ぶ服を嫌がったことはないけれど、フリルが付いたようなもう少しかわいらしい服が着てみたいと思ったことは、幼いころなら何度もある。母が選ぶものはいつもシックで、渋い色合いのものが多かった。

 自分で服を選ぶようになったとき、わたしはわたしの服選びの基準をどこに置けばいいのか、長いことわからずにいた。友人がくれた着古しのジャケットを羽織ったとき、服というものもまたわたし自身を表現する手段であるということを、知ったように思う。

 

 

 【BeBeのツーピース】

 

 【三角の模様】

 

 

 

 

 

 

 

『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

 

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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