ルノワールと夜の和室
自分が暮らした部屋よりも思い出すかもしれない、いくつかの部屋がある。特異な出来事や部屋の住人との特別な関係性が、かならずしもあったというわけではなく、部屋そのものが特殊ということもない。それでもそれらの部屋はなぜか、わたしの記憶のなかにいまも不思議な空間をつくる。部屋そのものが記憶の空洞のような、名づけようのない場所としてそこにあるのだ。
四歳から中学生までピアノを習っていた。当時暮らしていた家の裏手がたまたまピアノ教室だったのと、習い事ならピアノ、算盤、書道のいずれかを娘にやらせたいという母の希望によるもので、自分の意思ではなかったが、それなりに楽しくかよっていたのは、先生の家のピアノのある一室で、稽古の順番を待つ時間が好きだったからだ。
先生の家の玄関を入り、左手の玉のれんの向こうがお勝手で、右手の開き戸の向こうがピアノのある部屋だった。革張りや布張りの一人掛けソファが並び、一脚だけあるロッキングチェアは、ピアノの先生の夫が使用していた。夫はオーケストラに所属するフルート奏者で、たまにピアノのレッスンも担当したが、指導は先生よりも厳しかった。アップライトピアノの横の壁には、金色の額縁に入ったルノワール『ピアノを弾く二人の少女』の複製画が飾られていたが、当時は画家の名もタイトルも知らず、ピアノを弾かなくなってからあの絵がルノワールだったことを知った。ただ、当時の自分がなによりも楽しみにしていたのは、レッスンの順番を待つあいだ、その部屋の押し入れにあるたくさんのコミックを読むことだった。ピアノの先生にはわたしより数歳年上の息子と娘がいたので、それらはおそらく彼らの所有物だったと思うのだけど、順番が来るまではどれを読んでいてもよかった。『釣りキチ三平』や『いじわるばあさん』、少女漫画誌である『なかよし』の看板作家だったあさぎり夕のコミックなどは、ピアノの先生の家でしか読んだことがない。漫画を読むことを楽しみにかよっていたので、当然ピアノの腕前はさほど上達せず、十年近くかよったけれど、習うことのできた楽譜は『ソナチネ』や『ハノン』どまりだった。教室の繊維壁に混じる、金色のラメのような粒をときどきぼんやりと数えていた。
その街には同年代の友人たちがたくさん住んでいて、彼もその一人だった。路地をいくつか曲がった奥の、古い共同住宅に彼の部屋があった。共有の小さな玄関で靴を脱いで二階へ上がり、共有の廊下のつきあたりが彼の暮らす和室だった。
彼の暮らす部屋には数度しか足をふみいれたことはないと思うのだけど、友人同士でなんとなく飲み明かそうというような雰囲気の夜に、漂着するように数人で彼の部屋を訪れた。独立して仕事をしている友人が多かったこともあり、そのころは毎日のように余すことなく夜を楽しもうとしていた。誰かが持ち込んだボンベイ・サファイアの青色があまりに鮮やかで、水割りで飲ませてもらったことをおぼえている。話した内容は少しもおぼえていないのに、銀色の深いシンクにコップがていねいに洗われ並んでいたことや、ガラスケースに入ったビジュアルの美しい芸術書や、窓際で彼が静かに笑いながら音楽を流していたこと、それは知っている曲もあれば、知らない曲もあって、曲にだれかが言及するようなことはほとんどなかったけれど、ただ音楽が流れていた小さな空間のことをおぼえている。特別な日の出来事ではなかったはずなのに、白熱灯のやわらかなあかるさにふちどられたあの小さな和室が、夜としていまも完璧な形をしていることに少しだけおどろく。
「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」などの詩で知られる石垣りんがゆたかな散文の書き手でもあったことを、梯久美子『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋)や『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』(中公文庫)を読んではじめて知った。詩人は家族を養うために銀行員として長く働いたが、生涯結婚はせず、退職後には川辺の1DKを購入しひとりで生活している。ひとりの部屋から見えるひとりぶんの暮らしと、それらをなぞるまっすぐな言葉の数々に、自分が女性であり母でもあり、妻でも娘でもありながら、ときにはそのどれでもない「わたし」であるのだということ、それを自分にゆるすための部屋を、たぶんわたしはもちたかったのだとはじめて気づいた。おそらくそのためにこうして行き場のない記憶と感情を、つたない言葉で手探りでつむいできたのだ。石垣りんのまなざしが「わたし」の部屋を見つけてくれたように思った。
『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子
言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。