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何を読んでも何かを思い出す

ヘッセとギャリコと大谷翔平

 日中の数時間だけ勤務している会社には、柱に備え付けられたテレビが数台あり、ふだんは消えているテレビが今日はついていることに気づいたのは、にわかに数人が立ちあがりテレビを見上げはじめたからだ。画面では塁に出た大谷翔平が、ユニフォームの胸の部分を左手でつかんでいる。大谷が所属するドジャースがワールドシリーズで優勝するかどうかという試合で、音量は切られているのか実況は聞こえない。負傷した左肩を固定しているのかもしれないねと誰かが言った。自分の席からは首をすこし動かすだけでテレビが見えるので、なんだか申し訳ない気持ちで仕事をすすめる。真面目なわけではなく、試合を見るか仕事をするか、どちらかしかできないとわかっているからそうしただけだ。カラフルにうごめく画面を視界の端に感じながら、わたしは大谷ではなく自分の叔父のことを考えていた。

 

 大谷選手って「小さいおにいさん」に似てると思わない? と家族に尋ねてもさしたる反応がなかったので、以来話したことはないが大谷翔平を見るたびに若い叔父を思い出す。

 母にはふたりの弟がおり、気がついたときには上の弟を大きいおにいさん、下の弟を小さいおにいさんと呼んでいた。正式な関係は叔父だが、「叔父さん」と呼んだことは一度もない。幼い自分とよく遊んでくれたのは、わたしが生まれたころにはまだ高校生だった「小さいおにいさん」のほうだった。

 子どもを飽きさせないちょっとした勘所をよく知っている人だった。切符に印字された四桁の数字を加減乗除しいち早く10をつくる遊びも、同尾音の単語をさがして相手を攻めるしりとりのやり方も、はじめに教えてくれたのが叔父だった。親戚同士の退屈なやりとりに辟易していた正月、子どものわたしを台所へ手招きし、実験しようぜと言いながら、鏡餅の残りで叔父が作ってくれた「チーズ餅」や「カレー餅」がおいしかったこと、わたしを叱る母を横目に、そんなにガミガミ言わなくてもいいじゃん、ねえ、などと語尾を上げておどけながらたびたび場をなごませてくれたことを、いまも若い叔父の声とともにはっきりと思い出せる。長女の自分にとっては望んでもやってくることのない、本当の兄のようだった。

 その叔父の顔や風体が大谷翔平に似ているというのは、大谷がプロデビューしたころからうっすら思っていた。叔父は当時にしては身長がとても高く、人混みではいつも頭ひとつ飛び出ていた。頭と体つきのバランス、目もとの柔らかさと眉の位置、喋るときにすこし前に出る口もとなどが、何度見てもやはり似ている気がする。野球の話は聞いたことがないが、学生のころの叔父はテニスをしており、大会で優勝したときの賞状が、祖父母の家にあった叔父の部屋には長いこと飾られていた。

 叔父は大学卒業後にエネルギー業界の外資系企業に勤め、アラブ首長国連邦やオマーンなどの中東に長く赴任した。国際空港に行くのも飛行機を見るのも、叔父の赴任にまつわるそれがはじめてだった。エアメールを書いたのも叔父宛てがはじめてだ。住所の表記の順が英語だと逆になることを、なんだか面白いなと思った。エアメールには必ず返事をくれたけれど、遠い異国で慣れない仕事に従事しながら、子ども相手にいちいち手紙の返事を書くのは、ひどく面倒なことだったのではないかといまなら思う。叔父が帰国できるのは一年に一、二度くらいだった。

 叔父はよく本を読んだ。叔父の部屋には石油事情や国際関係の本、司馬遼太郎や吉村昭などの時代小説とともに、ヘッセの新潮文庫の水色の背がずらっと並んでいた。大学の卒業論文をヘッセで書いたと後年聞いたような気がするが、なぜヘッセを好んでいたかは聞きそびれた。

 一時帰国した叔父がわが家に泊まりに来ると、ふだん使わない和室が叔父の寝起きする部屋となり、うれしさのあまり和室に何度も突撃するのだが、叔父の枕もとにはたいてい文庫本が置かれていた。子どものわたしはその小さな判型に漠然とあこがれをもった。

 叔父からもらった文庫本が二冊だけある。一冊は上野動物園の第七代園長である中川志郎の『珍獣図鑑』、もう一冊はアメリカの小説家ポール・ギャリコの『ジェニィ』で、どちらも新潮文庫だった。『珍獣図鑑』のカラー写真でテングザルやマントヒヒを知り、夢中になってページを繰るわたしと妹にむけて、あげるよとふたたび中東へ発った叔父が、その文庫を置いていったことはなんとなくおぼえているのだが、『ジェニィ』をなぜ叔父が薦めてくれたのかはよくおぼえていない。小学校高学年のころのことだ。

 文庫の頁紙の薄さや小さな活字に気おくれしながらも、わたしは時間をかけて『ジェニィ』を読み終えた。少年が猫になるという入りやすい設定のわりには壮大で、楽な読書ではなかったが、猫たちの冒険譚には自然とのめりこんだ。読めたことを叔父に褒められたいという気持ちももちろんあったはずだが、どのように伝えたかは思い出せない。

 叔父はわたしが高校生のころに結婚し家庭をもった。以前のような叔父との交流はそのころすでになかった。親族のみが集まる結婚披露パーティーが赤坂のホテルでひらかれ、土曜の半日授業のあと、制服のままでひとり会場へ向かったわたしは、慣れない都心の街でしばし迷った。正面入口とは別の地下駐車場から建物へおそるおそる入り、遅れてなんとか部屋にたどりついたが、どうにも座りの悪いまま会食はすすんだ。

 会の終盤、叔父へ一言どうぞと振られて立ちあがったわたしは、途端になぜか涙がとまらなくなってしまった。自分でも訳がわからず、戸惑えば戸惑うほど涙はあふれた。そのころはもう叔父が好きなだけの子どもではなかったし、結婚する叔父を祝福する気持ちでここまで来たのに、なぜ自分が泣いているのかさっぱりわからない。こんなふうにドラマチックに泣いていると、〈大好きな叔父さんが結婚して複雑な感情を隠せない思春期の姪〉みたいなわかりやすい図式に取りこまれてしまう! そんなつまらないこと少しも思っていないのに、なんで号泣しているんだ自分! となかば腹立たしい気持ちになりながら、背中を優しくたたいてくる母の手を、ちがうちがうと泣きながら避けたが、このふるまいさえもわかりやすさの図のうちにあると気づき、静かに絶望していた。あんなふうに涙を流したのはあとにも先にもあの一度きりだ。

 家庭をもった叔父とわたしはますます疎遠になったが、成人してからひとりで祖父母の家を訪れたとき、先に着いていた叔父が一度だけ車で駅まで迎えに来てくれたことがあった。運転席と助手席で、久しぶりだねなどとぎこちない会話を交わしながら、叔父が義理の叔母の料理を褒めていたことをおぼえている。料理してるか? 料理はしないとだめだぞと運転席の叔父は笑いながら言った。子どものころのわたしは小説だけでなく漫画を読むことも好きだったので、漫画ばかり読んでいないで料理もやらないとだめだぞ、というのが叔父のわたしへの口癖だったのだが、そのころもわたしは漫画をたくさん読んでいたし、料理のレパートリーは片手で数えるほどだった。そのときわたしは叔父を「小さいおにいさん」としてではなく、はじめてひとりの大人としてとらえ、叔父と自分との違いを思った。

 

 それから何年も経ちわたしの妊娠が判明したころ、叔父がかなり重い病であることがわかった。ひとりの部屋にかかってきた電話で母からの報告を聞きながら、わたしは本棚の背の文字を無意識に目で追っていた。背表紙のどこかに明るい選択肢が隠されているのだというように何度も追った。ほどなくしてわたしは出産し、叔父にはメールで子どもの写真を何枚も送ったが、会いにいくことはついにできなかった。会いにいきたいと思いながら、乳飲み子を連れて遠方まで訪ねる決心がどうしてもつかなかった。冬になる前に叔父は亡くなった。還暦までもまだ数年の間があった。

 

 生きていたらわたしの子どもにも、なにか本を薦めてくれただろうか、活字の本をすこしも読まないわたしの子どもに、漫画ばかり読んでいないで料理もするんだぞ、とやはり言っただろうかと、大谷翔平の活躍を見るたび勝手に叔父を思い出す。わたしはいまでもしりとりをすると、「り」からはじまる単語だけはたくさん答えることができる。

 

 

 

 

 

 
『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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