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何を読んでも何かを思い出す

果ての海とドトール

 海なのに、写真のように景色の切りとられた場所にいて、砂浜の手前で思い出したようにひるがえる、なめらかな光を見ている。

 切りとられているから此処がどこなのか、全景がわからない。振り向くことはできる。振り向いて視線を少し上げると、堤防のような石場の上に親しい人たちが並んで座り、にこにこと笑ってこちらを見ている。親しさの感覚だけがあって、誰なのかはわからない。

 入ってみるね、と彼らに声をかけ、スカートらしき長い布の裾を持ちあげ、服のまま海へと向かう。くるぶしとふくらはぎの間に感じる潤んだ風から、肌に触れる海水の温度を想像する。彼らが面白がってくれるかもしれないと、頭のどこかでそう思っていた。

 波で黒く変色した砂の目前で、ふと足がとまる。先ほどから見ていた光、あれは海面に反射する陽の光などではなかった。大きな魚が銀色の腹を光らせ、砂に埋め込まれたように沈みながら、大量に死んでいた。

 さかな、とつぶやいた形のくちびるのままでふたたび振り向くと、やはり彼らは石堤の上で、にこにこと笑ってこちらを見ている。彼らには見えないのだ。まばゆいほどの海面のきらめきが、死んだ魚たちのぬめった鱗であることが、彼らにはわからないのだ。切りとられた海岸線を前に、わたしはひっくり返った魚の腹の輝きを見つめている。足裏に粘り気のある海水がひたひたと迫る。死んだ魚たちの空に向かってひらいた口が、さかな、と先ほどつぶやいた自分の口に見える。

 

 波間にときおり浮かぶ魚の腹のイメージなどがあまりに鮮明だったので、あきらかに悪夢だろうと思いながら、夢判断でキーワードを入力してみると、〈過去に執着している〉〈方向転換を迫られている〉などの暗示と説かれていた。なかには〈生まれ変わりを意味する吉夢〉と説くサイトもあったが、寝覚めの悪さからして吉兆とは思えない。

 

 ある日のドトールで、大きな窓から人びとの行き交う通りを見て、いま生きている人としかすれちがえないのだ、とふと思った。死んだ人、数時間前には生きていたけれどいまはもう死んでしまった人とも、この通りですれちがうことはない。

 だからどんなに遠い場所にいても、日々を忙しく過ごしていても、交わされた約束がなくても、生きてさえいれば、どこかの町のドトールの大きな窓の前で、あなたとわたしはすれちがうことができるかもしれない。そう思うと、いまこの世界に存在するすべてのドトールが美しい偶然に満ちた、かけがえのない場所のように思えてくる。各自が与えられた役割を粛々とこなすことで、優柔不断で複雑なオーダーも次々とさばく、チェーン店のフォーメーション的な接客は尊いと思う。

 

 「いま」という何もかもが二度とないということを、こわいと感じる自分がときおり現れる。こわい、という感情が先にあり、ふいにすべての風景が逆廻しになるような感覚がおとずれると、どうしてこれまでこわがらずに生きてこられたのかわからない。

 

 三年前に亡くなった祖母の本屋を思い出すとき、なぜか緑のホットカーペットがまっさきに思い浮かぶ。居間には春夏秋冬、いつでも緑のホットカーペットが敷かれていた。

 居間の一角に帳場があり、傍らには収納を兼ねた電話台があった。片開きの扉をひらくと、そこには財布や配達台帳や筆記用具など、ふだん使用するまあまあ大事なものがつっこまれていたという印象があるのだが、そこからクリーム色に赤字で〈SHINSEI〉と記されたパッケージを取り出し、祖母はときどき煙草を吸った。

 居間には近所の知り合いなどの来客が頻繁にあったので、訪問客か祖母によるものかはもうわからないけれど、ホットカーペットのあちこちに煙草の焼け焦げがあり、居間の柱にもたれ、ひたすら店頭の漫画を読みあさりながら、わたしは円周の固く黒くなった小さな焦げ跡を目にとめた。

 店からは見えない位置にあった鏡台、そこに転がるピンクのカーラーや、夕飯時になると卓袱台の下にしまわれる錆色の茶こぼしなどが、ふと記憶の手のひらで鮮やかにひらかれるとき、そのどれもがこの世にはもう存在しない物であることを思い知らされる。姿そのものを思い出すよりも、使い古しのありふれた生活用具から、不思議と明瞭に立ちあがる祖母の輪郭がそこにある。

 

 祖母の本屋が閉じた五年前は、乳児の育児に明け暮れていた。開いていたころの店を覚えていればいい、赤子連れで行っても迷惑になるだけだから、とそのときは思ったけれど、あの本屋の終わりを、誰より見届けなくてはいけなかったのはわたしだったのではないか、あのとき、わたしの内にある祖母の本屋も、本当は一度終わらせるべきだったのではないか、といまは思う。祖母はいつのまにか煙草をやめていた。

 

 バス停の先頭に並んでいた制服の女子高生が、ときおり不自然にかがむので何かと思えば、膝裏に大きな虫さされがあり、それを掻いていたのだった。ほのかな起伏を中心に、膝裏の全体が丸く桃色に染まっていた。

 やがて来たバスに乗り、一番後ろの広い席、左端にわたしは座った。夕方のバスは帰宅する学生たちで混み合っていた。

 降り口付近で話しこんでいた男子高生二人組の、片割れが先に降りた。川の手前にある停留所から走り出したバスを、片割れが笑いながら追いかけてきた。橋をわたり、赤信号で追いつきそうになったけれど、信号が変わって片割れはあきらめた。車内にいた片割れは、半笑いで彼の姿を追っていたけれど、やはりあきらめて進行方向へ向き直った。

 小雨が車窓を打ちはじめた。水滴はやがてかたちを変えながら窓をすべる。絶え間なく生まれる小さな生きもののように、水滴は窓の向こうをうごめいている。バスの速度で水滴が後方へ流れ去るとき、暗くなりはじめたガラスに浮かぶ白い軌跡をいつも、手紙のようだと思う。

 横罫の窓へとわたしは書きつける。何もかもを忘れないために、はやく、はやく書いておかないと、この生きている世界の何もかもを覚えていられるように、わたしは急いで手紙を書きなぐって、手紙の宛先であるあなたの記憶も、巻きこもうとしているのだ。

 

 

 

 

 

 

『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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