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何を読んでも何かを思い出す

水準器とベランダ

 風のつよい日は、ベランダに乾いた葉が落ちている。点々と落ちている日もあれば、ベランダの隅や排水溝に、吹き寄せられて集まっていることもある。

 ベランダの排水溝から上に白いパイプが伸びて、上階につながっている。想像の腿くらいの太さだ。団地の1階に住んでいるので、落ちた葉を拾っていると、パイプの内部をつたって上階から降りてくる、水音が聞こえることがある。水音はくぐもっていて、とおい。ながれてきたはずの水を、わが家の排水溝から見ることはできず、ざざ、ざざ、という音だけが、排水溝の闇の合間で、手繰りよせようとする回想のように、曖昧にひびく。

 

水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として         穂村弘

 

 垂直にながれる水のことを考えていたら、この短歌を思い出した。水準器、という単語が出てこなくて、水平、測定、器具などのキーワードを入れて検索すると、さまざまな型の水準器が、ずらりと画像であらわれた。画像に添えられた商品名に、水平器という表記が多かったので、そういう言い方もあるのだと知る。水平器のほうが使用の目的を伝えやすいけど、見た目のイメージなら水準器だろうと思う。水平器では名称が、あの謎めいた形状の答えになってしまう。なにかをわかることを、いつも少しだけ遅らせたい。

 水準器の水について調べてみると、あれはただの水ではなく、アルコールやエーテル、石油などの液体であり、液体の表面にひとつ気泡をのこして、密閉するのだという。そうなると「すごい」のは、のこされた気泡もおなじではないか。透明な樹脂の内側で、なめらかに丸くたゆたう彼の気泡よ。

 

 ベランダに、今日も葉が落ちる。ケヤキの葉はつらなって落ちてくる。ハナミズキの葉は赤く色づいている。子どもが敷いた小さな人工芝の上にも、大小の葉がとまる。人工芝の上の枯葉は拾いにくい。ポリエチレンの芝糸に、枯葉の乾燥した葉先がひっかかって、つまもうとすると葉が粉々になる。人工芝ごともちあげてひっくりかえすと、枯葉はかたちを保ったまま、タイル製の床にはらはら落ちる。人工芝の下は少し湿っており、ちょうどいいのでこのまま乾燥させることにする。

 

 人工芝の下が湿っているのは、雨のせいだけではなく、子どもが学校から持ち帰ってきた植木鉢にやる水のせいでもある。

 夏休みの前に、観察日記の宿題のため、子どもが植木鉢を持ち帰ったところ、ふりまわした手提げ袋のなかで、苗は無残な姿となった。ほうせんかとミニひまわりの苗だった。

 ミニひまわりは茎が折れ、大きくならずに枯れてしまった。ほうせんかもいくつかは茎が折れ、しなびていたけれど、あわてて植え替え支柱を立ててやると、少し元気をとりもどした。しかし、なかなかつぼみはつかなかった。茎の曲がった葉ばかりのほうせんかを、子どもは観察日記に描いた。

 

 夏休みが明け、日常がもどると、子どもは鉢植えに見向きもしなくなり、親も忘れた。

 酷暑は長びき、ある日ベランダのカーテンをひらくと、まるで五体投地の礼拝のように、ほうせんかがベランダの床に這っていた。

 だめかと思いながら、肥料を根元に差し、植物用の虫よけスプレーを吹きつけ、水を与えると夕方には、そ知らぬ顔で起きていたのでおどろいた。植物の底力を見たように思った。それからは数日おきに水をやり、様子を見るようにした。

 そのほうせんかが、霜月になって薄桃や白の、たくさんの花をつけるようになった。茎はあいかわらず曲がっているけれど、わずかに透きとおり、重なりあう花弁は可憐だ。

 師走にはいり、冷えこみが厳しくなってきたので、水やりの頻度もひかえめにしている。ほうせんかの小さな鉢の上にも、ときどき枯葉がひっかかる。その枯葉も慎重につまむ。

 拾いきれないほどの枯葉が、ベランダに落ちているときは、団地の階段掃除に使用する帚を借りて、大きく床を掃くこともあるけれど、一枚一枚、葉の形や乾いた触感を確かめながら、ベランダの落葉を拾うというこの動作と時間を、ただひたぶるに降る枯葉のように、いまはながめている。

 

 秋に勤務先の書店を退職した。仕事によってつくられる身体ではなく、生活によってつくられる身体とはどのようなものか、たぶんわたしはよく知らない。ただ、働いていたころはめったに見ることもなく、掃除などしたこともなかったこのベランダに立ち、いったいこれまでの秋や冬に、ここにどれだけの枯葉が降っただろうか、わたしはこれまで、それらを拾いもしなかったのに、それらはどこへ行ったのだろうかと考えながら、ただひとつのなめらかに丸い、生活のかたちになろうとする。

 

 

 

 

 

 

 

 『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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