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何を読んでも何かを思い出す

カーブする駅のホームと銀色の車

 高校は郊外から都心へのびる私鉄の沿線にあった。同じ最寄駅を使う友人がいたので、先頭車両で待ち合わせて一緒にかよった。友人とは三年間同じクラスだったが、成績別にクラスが振り分けられていることは校内の暗黙の了解であり、三年間クラスが同じというのは珍しくなかった。担任の先生も三年間同じ英語教諭だった。受験生になると毎朝、英単語の小テストがあった。友人と自分は電車のなかで旺文社の『英単語ターゲット1900』をひらいて、小声で互いに問題を出し合った。

 

 昨年、その友人を含む当時の同級生たちと会う機会があった。複数で集まるのはほぼ30年ぶりだった。

 友人とつながったのは、あるときネットで見かけた、英語教諭の死に関するニュースがきっかけだった。病による急死だった。

 まだ乳児の子育てにかかりきりのころで、慣れない育児の合間のわずかな休息時間に、どういうわけかたまたま訃報を見かけたのだったが、死去のニュースからはすでに半年以上が過ぎていた。うろたえ、それまで連絡をとろうとしたことなど一度もなかったのに、話を聞ける知り合いはいないものかとSNSで氏名を検索し、ゆきあたったのが登校をともにしていたその友人だった。突然の連絡だったが、友人はこちらの不義理を責めることなく、葬儀に参列したこと、そのときに会ったクラスメイトの様子などを教えてくれた。

 

 なんでつながったんだっけ、と再会の場できっかけの話になり、英語教諭の死について話した。ああそうだったね、とそこからは先生の悪口も含めた当時の話になった。

 

 同じ人物、同じ場面についてであっても、人によって記憶のされ方が異なる。かつての出来事が言葉によって場に共有され、驚きや笑いをともないながら、また別の言葉で言及されるとき、記憶は交わされた言葉を何層にもまとい、新しい創造物となってふたたび場にあらわれる。手を伸ばせば触れられそうな確かさで。それ自体は過去でありながら、語り合うことによって新しい現在となる来し方の不思議を、言葉にしないままその場で感受していた。

 

 そこで、ある出来事が語られた。

 友人と自分が卒業の記念にと、毎朝待ち合わせをしていた最寄駅から学校までの13駅、距離にして30kmほどの道のりを、一度だけ自転車で登校したことがあったと言う。友人も自分も自宅から最寄駅までが遠く、駅まではもっぱら自転車を使っていた。その自転車で一緒に高校へ向かったのだと。

 友人と自分の小さなチャレンジは他の友人にも共有されており、車窓から自転車で走る二人の姿が見えたとか、始業時間から遅れて到着した二人は拍手で迎えられたとかいうエピソードも語られたのだが、なぜか自分はそのことをまったく覚えていない。そんな印象的な出来事を忘れるはずはないのにと、当時乗っていた自転車の形状や、自転車で走ったはずのルートを思い浮かべるうちに、あれっと思った。よく見るあの夢はひょっとして、この消えた記憶によるものなのだろうか。

 

 自転車で長い距離を走っている。それなりに急いでどこかへ向かっているが、どこなのかはわからない。車通りの激しい往来を抜けて、舗装された広い道路を軽快に走り抜けると、ふいに視界がひらけ、スケートボードのハーフパイプのような形をした、巨大な空間があらわれる。それは青みがかった人工的な建造物であることもあれば、よく見ると土がむき出しの、工事中の山の斜面のような場所だったりすることもあるが、見えた途端に圧倒されるような、大きな空白であるのはかわらない。空間の周りにはフェンスがはりめぐらされ、人の気配はない。

 夢の中のその日はいつも、快調にスピードにのることができる。巨大な空間の周囲を、自転車をわずかに傾けながら曲がるとき、風が肌を撫でる。空間に引きよせられそうになりながら、ひたすら自転車を飛ばす。

 

 一度きりの自転車登校のことは少しも思い出せなかった。友人からはなじられたが、代わりに夢のことを思い出し、ひょっとするとこの夢のおおもとに、消えてしまった自転車登校の記憶があるのかもしれないと思った。

 

 正月に実家へ向かうため、子どもとともに私鉄に乗り、高校のある駅を通過した。

 各駅停車しか停まらないこの駅は、ホーム自体が大きくカーブしており、当時はホームの端に改札口があった。登校時刻が近くなると、ホームは同じ制服の生徒であふれ、友人と自分が乗車していた先頭車両から、改札のある後方の様子は見えず、改札へ向かってしばらく進むと集団のなかにちらほらと、友人たちの頭が見えてくる。

 担任の英語教諭は車通勤で、たしか銀色の車で学校へ来ていた。当時、別の友人がどうにかして車に乗せてもらおうとしていたけれど、あの車の車種はなんだったろう。

 

〈あのころ、れいは、なんとなく世の中は少しずつよくなっていくのだと思っていた。はっきり言葉にして意識する必要もないくらい、世界はもっと変わっていくと思っていた。〉[1]

 

 年が明け、柴崎友香『続きと始まり』を読んだ。面識のない三名の登場人物がそれぞれに過ごした、二〇二〇年三月から二二年二月までの、ウイルスにより一変した日常の風景の向こうに、おのおのの記憶が編みこまれていく。そこには一九九五年の阪神淡路大震災と、二〇一一年の東日本大震災の景色も含まれる。二〇二二年二月、ちょうど二年前のいまごろに、登場人物のひとりである柳本れいは、新宿の街を眺めながら「あのころ」のことを考える。

 

〈より正確に言えば、自分がなにもしなくても、なにも言わなくても、よくなっていくと思っていた。誰かがちゃんとやってくれると思っていた。世の中はだんだんよくなってきてるとこもあるよねと言うときに、苦しんできた人や変えようとしてきた人のことをそれほど切実に考えてはいなかった。〉[2]

 

 あのころ、カーブした駅のホームを制服で歩いたころ、なぜ自分はこわいものなどなにひとつないような心持ちで、生きていることができたのだろう。守られていたからだろうか。たくさんの人が暮らす社会で、だれもが同じようによくなっていくことを望んでいると、当然のように信じていたし、そうなるはずだと思っていた。

 

〈いつかのあのニュースやできごとが今のこのことにつながっていて、いつかのあのできごとはもっと前の別のことにつながっていたと、自分が実際に経験してやっとわかりはじめた。/十年、二十年、長い時間が経ってから、ようやく。〉[3]

 

 アメリカの同時多発テロも、阪神淡路大震災も、地下鉄サリン事件も、東日本大震災もまだ起きていなかった。なにも起きていなかったころのことを、うまく思い出すことがもうできない。長い歴史のなかの限られた小さな土地における、あれは本当にわずかな平穏だったのだ。あの平穏のうちにわたしの思春期があった。平穏だと思っていた時間にも、世界にはさまざまなことが起きていたし、自分はなにも知らなかった。知らないままでいることを許されていた。自分と自分の大切な人たちは、このままいつまでも安全な場所にいられると思っていた。

 

 いまとおった駅に母がかよっていた高校があるんだよ、と座席の隣に座っていた子どもに告げると、九歳の子どもはへえと言っただけだった。やがて列車は次の通過駅にさしかかった。友人と自分の自転車で走る姿が見えたのは、このあたりかもしれないと思った。

 

 

 


・引用元

[1]柴崎友香『続きと始まり』(集英社)323頁

[2]柴崎友香『続きと始まり』(集英社)323~324頁

[3]柴崎友香『続きと始まり』(集英社)324頁


 

 

『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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