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何を読んでも何かを思い出す

アン・サリーとバートン・クレーン

 深まりかけた夜のタクシーを手前で降りて、駅までの路地を歩いた。ひしめく四角い住まいを見ながら、一部屋の間取りと家賃を想像する。点在する窓の光は、静かな読点のように小さく夜を区切る。東京の路地はどこも似ている。人びとの暮らしが狭い区画に押しこめられ凝縮されて、その街の内臓が煮つめられたようだ。

 

 大学を卒業して、アルバイトをしていた書店でそのまま正社員になった。正社員になってから五年後にその書店が倒産し、それから十年ほどのあいだに、七つの街で暮らした。

 

 引越を重ねたのには部屋の契約更新というだけでなく、恋人との別離、転職、改築のための立ち退きなどのいきさつがあった。

 はじめに働いた書店の倒産と前後するように、親族の長い闘病に回復の兆しが見えはじめ、同じくらい長い時間を過ごした恋人と別れたとき、自分の生きる基準の何もかもを、自分の外側にあるものに明け渡してしまっていたことにはじめて気づいた。目の前の事柄に真摯に向き合うことを善としながら、じつはその場その場をもはや自分以外の誰かのせいにして、やり過ごしていたのだった。

 

 アルバイトや契約社員として書店の仕事を続けながら、勤務後の夜や休日にはネット関連サービスのテレフォンアポインターや、古本屋の店番をした。そのほとんどが家賃と引越と、きりつめた食費に消えていったことを当時もいまも馬鹿なことだとは思うけれど、悔いているわけではない。

 

 宵闇に赤いネオンが燃える新宿をくぐり抜け、灰色をした西新宿の高層ビル群の中に入ると、平衡感覚がいつもおかしくなった。上層階の広大なフロア一帯が、あるネットサービスのコールセンターになっていた。

 インカムをつけて席に座るとすぐに呼び出し音が鳴り、入電してきたユーザーとつながる。ユーザーとの会話はチームリーダーがいつでも聞けるようになっている。リーダーは大学サークルの部長みたいな男女ばかりで、フロアの隅でリーダーたちが頻繁に歓談するのを見ながら、この集団のなかにも面倒な色恋沙汰などがあるのだろうと勝手に想像をふくらませた。

 ISDN、ADSL、光通信など、ネット回線の乗り換えキャンペーンの案内や申込、回線工事日程の予約手続きや確認、モデムの接続についてのサポートや、クレーム対応などが主な仕事内容だったが、研修時に支給された分厚いマニュアル以上のことは説明できないので、ひたすらユーザーの話を丁寧な口調で聞いていれば事足りるようなところがあった。一つ一つの案件に簡単なレポートを残し、準備ができたらまた次のユーザーからの入電を受ける。大きな窓に映るどこまでも平板な蛍光灯の連なりが、知らない誰かの声を何度もなぞっていく。数時間の勤務だったが、書店の仕事よりずっと割はよかった。ただ、少しも面白くなかった。

 

 三つ目の街で暮していたとき、隣駅を散策していて、通りの奥まったところにたまたま古本屋を見つけ、そのままそこで働くことにした。

 

 帳場には円筒型の石油ストーブがあって、扉をひらくとストーブを焚かない夏場にも石油の香りがした。わたしに仕事を教えてくれた女性は別の古本屋でもアルバイトをしているのだと言い、わたしが入ってからほどなくして辞めた。髪の長い静かな人だった。その女性が帳場でアン・サリーをよく流していたので、わたしも流すことにした。

 買い取りをした本の小口を紙やすりで削ったり、新古書店で貼られた値札シールをライターのオイルで剥がしたりした。晴れた日は車輪付きの百円均一本の木棚や、卓袱台に目いっぱい新入荷の料理本などを並べるので、それらを仕舞ったり出したりするのが一仕事だった。

 

 この古書店にはもうひとつ店舗があって、ときどきはそちらにも出向した。

 女性店主のSさんと話をすることはほとんどなかった。帳場のCDデッキにはたいがい、前夜にSさんがかけたと思われるふちがみとふなとや、バートン・クレーンのCDが入っていたのでそれを流した。時間になると、小さいヘルメットをかぶったSさんが静かにやってきて、いくつか今日の報告をすれば終わりだった。

 朝のわたしが店先に出した卓袱台や足踏みミシンの配置を、夕方のSさんが無言でさかさかと直すと、店先はすっきりと見栄えがよくなる。本の装丁なども手がける、芸術家のSさんのゆるがない美意識をそこかしこに見て、Sさんの店に入るときわたしの背筋はいつも少しだけ伸びた。

 

 やがてわたしは書店の正社員になることが決まり、古本屋のアルバイトは辞めてしまったが、Sさんが独立して、同じ場所で屋号を変えてSさんの店をひらくという話を聞いて、開店準備中の店を見に行くことにした。

 白熱灯のまるい光の向こうに、ほっかむりのSさんが動くのが見えた。差し入れのビールを渡してすぐに帰るつもりが、ふたことみこと話すうちに椅子が出され、気がついたら並んでビールを飲んでいた。

 店内はずいぶんきれいになったように見えたが、元々あった本を並べかえただけと聞いて驚いた。マッチラベルのシートや、以前にSさんがスクーターにくくりつけて、大事そうに持ってきた沢山の古いお菓子の箱も、棚の上に鎮座していた。Sさん作の招布(まねぎ)が天井に揺れるのを眺めた。

 出向での店番だったこともあって、自己紹介をほとんどしていなかったわたしは、そのときはじめてSさんが自分をどう思っていたかを聞いた。Sさんのいまの住まいについてや、独立に至るまでの話もはじめて聞いた。

 

 Sさんの古本屋はその四年後に閉店した。出産と重なったこともあり、閉店してからわたしはそのことを知った。体調を崩されたとのことだったが、友人からの誘いを受けて数年前にSさんの写真展へ足を運んだとき、Sさんにお会いすることができた。くりくりとした丸い目が変わらずうれしかった。

 友人でもなく、母でも姉のようでもなく、上司や先輩のような単純な上下関係でもなく、Sさんとわたしの関わりというのは名づけがたいものだけれど、もはや恋人よりも深く、Sさんが今日もどこかで元気でありますように、あの丸い目をくるくるとさせていますように、と祈るひとときというのが確かにあって、容易に会う関係でないからこその結びつきの強さ、柔らかさというのは、大人になってから感じるようになった。

 

 六つ目の街では同年代の人たちとたくさん知り合った。会社には属さず、それぞれに独立して仕事をしている人が多かった。真夜中に友人たちと卓を囲んで、ソフトクリームをいかにして食すか、という話をしたことがあった。

 ふもとから頂上へ向かって、ゆっくりと低山を登るように食べる。

 まずはコーンの手前で更地をつくり、終盤にコーンとクリームの一体化をめざす。

 先をつねに「くるん」とさせ、小さなソフトクリームを作りつづけるように舐める。

 暖房のきいた和室で、夏の食べ物の話をしていることがまずおかしかった。

 

 六つ目の街を離れるとき、近所に暮らす友人と坂の下で会った。

 赤い自転車を引いた彼は、一冊の古い本をわたしにくれた。谷川俊太郎装丁、一九八〇年版の永瀬清子『焔に薪を 短章集3』(思潮社)だった。ちょうど端本だったから、と差し出してくれたように記憶している。

 帰り道が同じだった彼とは、ときどきこの道で行き会った。軽く言葉を交わしたあとに遠ざかる赤い自転車は、それが見えなくなっても、わたしの頭の中で何かの印のようにいつまでも明滅した。

 彼もいまはあの街にいない。書くということは、その対象を言葉の上で少しだけ過去にすることだから、あの街にいまも暮らしている友人たちは、勝手に過去にするなと憤るかもしれない。街は内臓を入れ替えながら、そこに息づく。

 

  「止まるな」

 

 止まっていないこと、

 それで私の書く平凡なことでも

 川の流れのように足を洗ったり手を洗ったりできるでしょう。

 (永瀬清子『焔に薪を 短章集3』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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