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何を読んでも何かを思い出す

みずうみとまなざし

 記憶にあるいちばんはじめの本は、〈いわさきちひろの絵本〉というシリーズのうちの一冊で、偕成社より刊行された『にじのみずうみ』だ。

 欲深くてまぬけな魔法使いが、湖に住む水の精オンディーナに恋をし、自分の伴侶にしようと魔法を使って画策するが、失敗ばかり、くやしさに虹をちぎって投げた湖が、七色にかがやく…というイタリア北部のカレッツァ湖にまつわる民話をもとにしている。

〈まあ、きれい。まるではなびみたい。/あっ、またおちたわ。ひとーつ、ふたーつ。〉

 力を見せつけようと、魔法使いが起こした雷に手をたたく、童女のような表情のオンディーナや、白い紙からこぼれるような水彩の虹が、子どもの目にも美しくて、幼稚園の教室で何度も手にとったことを覚えている。

 

 魔法や妖精や架空の国やらが、とにかく好きな幼児だった。毎週のように祖父に連れていかれる玩具屋では、ぬいぐるみや人形に見向きもせず、アクセサリーばかりを眺めていた。硝子玉や銀のくさりが、いつか自分を別の世界へとはこぶ媒介になると思っていた。夜の布団にもぐると、小さな鉱石を常夜灯に透かして、そこに満ちていく光と、光のまわりで濃くなる闇を見ていた。

 わたしはわたしの過剰で厄介な自意識に愛着をもっていた。自意識の部屋を守るために社会性を身につけた。周囲の要望に先回りしてこたえることを、まったく苦には感じなかったけれど、いまここで巧妙に立ちまわっているのは自分とは別の人間である、という前提はつねにあった。現実に上手に対峙する自分は、液晶画面を眺めるようにいつでも遠かった。

 自意識の部屋を守るために物語が必要だった。そこではだれかのために正しいふるまいを強いられることも、想像を制限されることもなかった。友人と会わない放課後は町の図書館へと足をはこび、大きなマットレスの端に腰かけてページを繰りながら、船長や悪魔やしゃべるネズミと、日が落ちるまでえんえん会話していた。裏表紙の内側には桃色の管理カードが、未知の土地への招待状のようにうやうやしくさしこまれていた。

 

 いちばんはじめの本について思い出したのは、津村記久子『サキの忘れ物』(新潮社)がきっかけだった。

 高校をやめ、喫茶店でアルバイトをする千春は、ある日常連の女性客が忘れていったサキの文庫本をこっそり持ち帰る。短編の名手として知られるイギリスの小説家、サキ。千春に本を読む習慣はない。ただ別れた恋人ともし結婚して女の子が生まれたら、「サキ」という名前にしようと思っていた、それだけのきっかけだ。どの話から読めばいいのかも、出てくる単語の意味もわからず、一度は読むことをあきらめるが、どうしても気になって書店に寄り、千春は自分の手ではじめて文庫本を購入する。

〈いつもより遅くて長い帰り道を歩きながら、千春は、これがおもしろくてもつまらなくてもかまわない、とずっと思っていた。それ以上に、おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたいと思った。〉

 楽しくないという理由で退学した学校、無関心な両親、好きなものもやりたいこともわからない自分。身動きのとれない千春の前にあらわれた忘れ物の一冊が、千春の世界を少しだけ変えていく。

〈その話を読んでいて、千春は、声を出して笑ったわけでも、つまらないと本を投げ出したわけでもなかった。ただ、様子を想像していたいと思い、続けて読んでいたいと思った。本は、千春が予想していたようなおもしろさやつまらなさを感じさせるものではない、ということを千春は発見した。〉

 そう、もうひとつの世界のことをただ子細に想像し、思うことが、めぐりめぐって現実と向き合うための資源になることがある。物語をいくつもなぞることによって、それらを読む自分の輪郭もなぞられ、とりまく景色はより鮮明となる。

 読みながら千春に話しかけたいと思うけれど、千春の読む手をとめてしまってはいけないと、繊細な場面にただ息をつめる。あなたが本の言葉に出会う瞬間に、いまわたしが立ち会っている。それも驚くほど近い場所で。おそらく現実でもあなたとわたしは、こうやってすれちがい、ときに関わり合いながら、見えない座標軸の上を行き交っている。

 それはべつに本でなくてもいい。『サキの忘れ物』が一冊の本との出会いを描き、彼女の世界を動かしたことにつよく共鳴したけれど、それは本だからということではない。

 

 書評を書きながら、あるいはいまこうして雑記を書きながら、移動中の電車で読みかけの単行本の重みを感じながら、職場の書店で背表紙の並びを整えながら、自分は本当に本が好きなのだろうか?と思うことは日常的にある。

 活字を読めなくなることより、季節の料理や甘味を食べられなくなることのほうが困る気がする。鞄から本を取り出す動作さえ面倒に感じて、見るつもりのないニュースをぼんやりスクロールしつづける休日はいくらでもある。

 

 6歳にして、保育園での生活に不満と不安を覚えはじめた子どもが、ひたすらに泣きながら眠る夜がつづいている。

 朝、目覚めれば機嫌はよいのだけど、保育園へ向かうために家を出るまぎわになって、またさめざめと泣きだす。給食の献立のなにが嫌いだ、クラスメイトの○○ちゃんにこわい顔をされる、お昼寝の時間にトイレに行きたくなることを言えるかどうか心配だ、などがそのときどきの涙の理由になる。泣き声を聞きながら眠る夜も、涙にぬれた手をひいて歩く朝も、一時的なものだと思うようにはしていてもなかなか頭から消えない。物語など頭に入らない。

 

 佐々木正美『子どもへのまなざし』(福音館書店)は、子どもが生まれたときに手にした。そういえば乳児のころは、めくるめく日常にひらくひまもなかった、と本棚からひっぱりだしてみる。

 児童精神科医である著者の、勉強会での講演をまとめたというだけあって、平易で親しみやすい語り口が特徴だ。これだけ厚みのある書籍が、たいていの書店の育児書の棚に差さっていることからも、1998年の初版発行から版をかさねる本書が読みつがれていることがわかる。A5判変形のハードカバーという本のたたずまいからして、圧倒的な〝良書〟である。

〈やり直しがむずかしい乳幼児期の育児〉や、〈育児でたいせつな待つという気持ち〉などの目次の謳い文句に、はやくも心が折れそうになるが、ページの上部に大きくとられた余白と、余白にときどき描きこまれる『ぐりとぐら』の山脇百合子さんの挿画に息をつく。

 乳幼児期のふれあいの大切さを説く、育児における教科書のような一冊だが、思いつきでネットのレビューを見てみると、本に記されたとおりにできる自信はない、完璧に実行するのは無理、という言葉が存外多く並んでいて、少し笑ってしまった。

 取り返しがつかないという乳幼児期はこのままバタバタと過ぎていくだろうし、書店員の仕事と細々とつづけている書く仕事で、疲れきった顔など数えきれないほど見せている。そもそも人との関わりを疎かにしたまま母になった自分が、子どもにふれあいの重要さを説くというのはなかなか難しい。

 それでも、保育園になんとなく行きたがらないようになってからしばらくして、ある日の入浴中に、ささいなきっかけで保育園での不安を、言葉をつぎながら必死に話してくれたあのときの子どものまなざしは忘れようがない。ここを逃してはいけないと、子どももわたしも裸のままで話しつづけた。

〈子どもというのは、いつも自分を見守っていてくれる視線が、そこにあるはずだと信じて、期待してふり返っているのです。〉

 こちらをふり返る子どものまなざしを見つめ返せる場所に、できるだけ長くいられたらとは思う。この本がみちびくような母に、わたしはたぶんなれないけれど、はじめから終わりまで母子について思考しながら読んだ本書も、自分にとってはじめての本である。

 

 

 

 

 

『何を読んでも何かを思い出す』  大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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