枝豆の緑と無機質な白
次の家庭科はいよいよ調理実習だよと、この春に小学5年生になった子どもが言った。最初の調理実習は〈ゆでる調理にチャレンジしよう〉という単元で、おひたしを作るのだと家からほうれん草を2束持って行った。次は温野菜サラダを作ると言って、自分で考えた調理計画表を持ち帰ってきた。計画によれば、人参とじゃがいもとキャベツが各40g必要とのことで、1個/1枚の単位にしてほしいなあとぼやきつつ、前日の夜の台所で「切りすぎ!」「あと3g!」などとさわぎながら、きっちり40gに整えた野菜をランドセルの隅に押し込んで、子どもは登校した。おひたしのときには、普段から家で料理をするというクラスメイトと組になって、自分より手際がよかったと言っていたので、にわかの知識を植えつけても意味がないとは思いつつ、野菜の切り方やゆで方をざっくり伝えた。じゃがいもはごつごつしているから、母はピーラーではなく包丁を使うことが多いよと、皮の上で包丁を動かすと、子どもが上手!と感嘆の声をあげてくれたが、わたしは料理があまり好きではないので、当然うまくもない。
料理が好きではない。料理を作るために実家の台所に立ったことは、おそらく片手でおさまるくらいの数しかない。台所は料理上手な母の領域であり、物心ついたころから自分は、そこに足を踏み入れることをはっきりと避けていた。母は人に何かを教えることが不得手だと言い、自分はたぶん母から何かを教わることが苦手だった。食事の支度を手伝わないわたしを当然のように母はなじるが、経験もスキルも皆無の自分がいまそこへ入っても、同じようになじられることは目に見えている。だったら入らない。それでも興味があれば、本を読むなり自ら研究するなりして、知識を身につけることはできたはずだが、それもしなかった。幼いわたしは自分が無能であることをまざまざと思い知らされる、台所という場所が本当に怖く、きらいだった。わたしは台所に入ることを避けつづけ、そのまま成人して家を出た。
一人暮らしをしてはじめに住んだ部屋はロフト付きで、ロフトの真下に台所があった。キッチンと居住スペースのあいだには何の仕切りも区切りもなく、台所は部屋の一角に素知らぬ顔でおさまっていた。
狭い台所だった。シンクのすぐ左に一口コンロがあり、調理のためのスペースはほとんどなかった。そんな台所が存在することすら知らなかったわたしは、それでもそこが自分のためだけの場所であることに、少し高揚した。アルバイトをしていた本屋で料理雑誌をはじめて購入し、簡単にできそうなものから作ってみた。チーズをはさんだ油揚げを軽く炙って、少量の醬油と唐辛子で風味づけしたおつまみや、フライパンで焼いた塩鮭をほぐし、千切りにした大葉と煎り胡麻とともに、あたたかい米に混ぜるだけのごはんが気に入り、くりかえし作った。指示どおりに作れば大きな失敗をすることはないと知り、工程を忠実になぞった。
恋人と住むことになった古いマンションの1階の部屋には、きちんと扉で区切られた広いダイニングキッチンがあった。流しの正面には磨りガラスの窓があり、台所に立つと、廊下を歩く人や帰宅する恋人の影が走った。住みはじめたばかりのころ、シンクに包丁を浸けていたことを失念し、洗い物をしながら指先を深く切ってしまったことがあった。タオルを手にぐるぐると巻いて、恋人と近所の病院の夜間診療に駆けこんだ。さいわい縫わずに済んだが、自分が料理に不慣れであることをあらためて自覚し、シンクに包丁を置き去りにすることを自分に固く禁じた。
最後に一人暮らしをした部屋の台所には、IHクッキングヒーターが一口備え付けてあった。電気コンロが使いづらいことは知っていたので、IHヒーターも同じようなものとして避けていたが、使ってみると電気コンロとは全く違い、思いのほか便利だった。火力が必要な炒飯のような料理は、フライパンを振らずに作るといいということを知り、やってみたら本当にぱらぱらの炒飯ができたので感心した。小鍋に湯を沸かして冷凍の枝豆を投入すると、ほの暗い台所に枝豆の緑が冴え冴えと満ちた。あまりの鮮やかさにひととき放心するほど、そのころの自分は自分自身に疲れていた。自分が何をしたくて何をしたくないのか、何が好きで何がきらいなのか、そのときどきでそばにいる他人の価値観に判断の軸を委ねすぎて、まったくわからなくなってしまっていた。
その鮮やかに変化した緑には、人びとの歴史の内に連綿とつながれてきた「生活」なるものの、たしかな輪郭がひそんでいるように見えた。それはいつまで経っても自分が手に入れることのできない、一生活者としてのまっとうさであり、その起因のひとつに自分が料理ぎらいであるということが、おそらく根ざしているはずだと考えていた。木村衣有子『生活は物語である 雑誌『クウネル』を振り返る』(BOOKNERD)を読んだとき、そのころのことを思い出した。
『生活は物語である 雑誌『クウネル』を振り返る』を読んで、リニューアル前の『クウネル』が自分の一人暮らしの時期と、ほぼ重なっていることにはじめて気づき、どこか腑に落ちるものがあった。2002年春に発売された1号から2015年76号までの『クウネル』は、当時のカフェや古本屋などあちこちで見かけたが、自分で所有したことは実は一度もない。経済的な余裕がなかったことと、その美しい体裁の読みものが描く世界が、どうしても自分からかけ離れているように感じていたからだ。
『クウネル』が映しだした時代の空気を、体感と経験をもとにした言葉で、しなやかにほどいてゆく本書で著者は、東京で一人暮らしをはじめた2001年末を〈その頃、私には生活がない、と、20歳ほど年上の、信頼できる編集者に打ち明けたのを今でもしばしば思い出す〉と振りかえる。20代なら生活がなくて当たり前と返されたそうだが、おそらくそう遠くない場所で「生活」なるものを漠然と希求した自分が、『クウネル』に手を伸ばせなかったのは、やはり料理への苦手意識に拠るところが大きいのではないかと思う。独自の商品展開で現在の独立系書店の先駆けと言われる、京都の「恵文社一乗寺店」での勤務経験がある著者は、『クウネル』を〈1990年代後半からのレシピ本シーンの集大成〉でもあったと説いた。『クウネル』が暮らしと家事を結びつけていたわけではないことや、「ていねいなくらし」の産物と思われている当時の生活系雑誌が、いくつかの誤解や価値観のすり替えの上にあったことを、これも本書ではじめて理解したが、料理が好きではない自分に「ていねいなくらし」を営む資格はないという、劣等感にも似た気持ちはいまもいだいているし、『クウネル』のような雑誌のあり方に、自分の劣等感が勝手にあぶりだされつづけていたことも、またたしかなことなのだった。
子どもが生まれ、料理をすること、台所に立つことに向き合わざるを得なくなった。あいかわらず作れる料理はかぎられているし、どんなにくりかえし作っている献立も、レシピをきちんと確認しないと気が済まないが、子どもはあまり文句も言わず食べる。なんとなく使いつづけている道具や食材を手にするたび、『クウネル』的なものへのあこがれがふとよぎる。夕飯の支度をしていると、気まぐれに子どもが手伝いを申し出るので、何かしらやってもらうことにしている。全身で木綿豆腐を切り、合わせ味噌を溶く子どもを見ながら、実家の台所にいまなら立てるのかもしれないと思った。
4歳の甥の遊び相手になるために実家に帰ったとき、焼きそばなら幼児でも食べられるし、あの台所でも簡単に作れるだろうと、近くのスーパーで買った豚肉とカット野菜、焼きそばの麺を食卓に広げたとき、足がすくんだ。まさかこの台所で自分が料理を作るなんて、という驚きと躊躇いが生まれたが、空腹の4歳を待たせるわけにもいかないので、無心でフライパンを振った。おいしいよと褒められながら、実家の台所の無機質な白さに、このぎこちなく拙い「生活」が、ほかならぬ自分の物語であることを、とにかくわたしは一度受けとめるべきなのだ、という気づきがふいに照らしだされた。
『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子
言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。