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何を読んでも何かを思い出す

ミツバチと幻

 是枝裕和監督の初長編映画作品である『幻の光』が、能登半島地震の支援のためにリバイバル上映されるという報せを目にして、あれは能登だったのかという気づきとともに、記憶がおし寄せてきた。

 

 渋谷のシネ・アミューズで、封切りしたばかりの『幻の光』を観た。二十歳だった。

 さまざまなアルバイトで手にした給料を、そのころは映画鑑賞に費やしていた。ひとり分のチケットを購入し、ほの暗い空間に定められた座席で、作品がはじまるのをしずかに待つことは、学生の自分にとってどこか公的な体験だった。大学を休学してアジアをまわる旅に出た恋人を送り出したばかりで、旅人に旅の物語があるように、待人が語り手となる旅の物語もあるはずだと思っていた。旅人と対等であるために、自分はどのようにあればよいかをいつも考えていた。

 大学では映画制作のサークルに属していたので、若手監督の撮る邦画をよく観た。大嶋拓監督の『カナカナ』や篠崎誠監督の『あれから』などが、いまも印象にのこっている。『幻の光』を観たのもその流れで、原作を好んで読んでいたこともあるが、死別というテーマが当時、それを体験したことのなかった自分の命題のひとつにあったことも大きかった。死によって身近なだれかに去られた人の心理を、できるだけ客観的に理解するため、ジャンルを問わずさまざまな体験に触れようとしていた。

 映画『幻の光』は低い目線に据えられたカメラや、色味のない景色に鋭く映える陰影など、原作に忠実でありながら映像の美しさがつよく記憶にのこる作品だった。終映後に館内がわずかに明るくなると、主演女優が鑑賞に来ているという放送が流れ、予告なしの舞台挨拶がおこなわれることになった。女優の名は知らなかったが、自分の座席の横をスクリーンに向かってすうっ、ととおり過ぎたジョーゼットのような、オーガンジーのような、女優が纏っていた透ける布のやわらかい動きと、光が眼裏に焼きついている。映画の感想と女優の挨拶について、恋人に長いエアメールをしたためたはずだけど、何をどのように記したかはまったく思い出せない。

 

 リバイバル上映のことをTに知らせると、橋口亮輔監督の『渚のシンドバッド』との2本立てで、『幻の光』を観に行ったことはおぼえている、だれかと観に行ったんだけど、たぶんKだったんだろうな、と言うので、そうだねKといっしょだったと思うよ、と答えた。Kは当時の彼の恋人だったが、いまはどこにいるのかふたりとも知らない。

 Tは同じ映画制作のサークルの同級生で、いまも映像制作に仕事として携わっている。文学や映画、哲学に並外れてくわしかった大学の友人たちのなかで、Tと自分はいつも教わる側にいた。同志のような存在のTと、たがいにいま何を考え、何にアンテナをはっているのか、大学を卒業してからも定期的に顔を合わせて語るようにしていた。そのTがビクトル・エリセ監督の『瞳をとじて』がすばらしかったと言うので、仕事のあいまに映画館へ足をはこんだ。

 朝からの雨は徐々につよくなり、とじると重みを増した折りたたみ傘から、あふれた雨水が前腕をつたった。受付で予約日を一日まちがえていたことが判明したが、もぎりの女性は、本当はだめなんですけどね、と笑って同じ席にとおしてくれた。100席ほどの館内はまばらで、はじめて訪れたが調べてみると、自分が生まれたころからある映画館だった。

 31年ぶりの長編新作である『瞳をとじて』は、作中に登場する未完の映画作品と行方のわからなくなった主演俳優、彼にまつわる人びとをめぐる、記憶についての物語だった。169分の作中には、代表作『ミツバチのささやき』で主演をつとめたアナ・トレントの出演をはじめ、ビクトル・エリセの過去作品を想起させる、さまざまな要素がちりばめられている。り糸が撚られるように人びとの記憶は交差をくりかえし、たどり着いた場所とたどり着かなかった場所を、スクリーンの上にひとしい遠さで映し出す。客席の自分はそれらの遠さを自分のまなざしの内にはかりながら、紙片のようにひらひらとはためいては消える、自分自身の断片的な記憶をもてあましていた。

 

 『ミツバチのささやき』は大学のころ、近くのレンタル店で借りてきたビデオテープで、当時暮らしていた恋人と観た。他にはカサヴェテスやヴェンダース、成瀬巳喜男など、いわゆる名作と呼ばれる作品をとくに脈絡もなく、床置きにした小さなテレビで観ていたと思う。作品の内容や映像はまばらにしかおぼえていないのに、私鉄の線路沿いに建つアパートの六畳間の、灰色の絨毯の硬い感触や、ロフトに上がる梯子の金属の軋み、出窓に置いた木製ラックの底に黴が生えていたことや、終電後の作業車両が窓に放つ平たい光のことをおぼえている。

 なぜいつも過去のことをこんなふうに思い出すのか、自分でもよくわからない。その後10年近い時間をともに過ごし、別離した恋人をいまも忘れられないのだとか、恨んでいるのだと言われるとしたら、それでもいいかと思うくらいには興味がない。

 なにもかもがそこにあり、やがてなにもかもがなくなるということを、うまくとらえることがいつまでもできないのだ。絨毯も梯子もあんなにもそこに「あった」のに、いま自分はそれに触れることができない。それがなぜなのか経緯としては理解できても、理解に感覚がからまると、記憶はエラーを起こしたように、現在との距離感をうしなう。

 

 『瞳をとじて』を観たのち、映画館の出口にあった『幻の光』のチラシを手にとった。そこに記された〈29年の歳月を経て、デジタルリマスターにて今新たによみがえる〉という文言を読んでTが、29年という時間にうわっとなっている気もする、と話していたことを思い出した。

 29年を経て、いくつかの恋愛も恋愛のようなやりとりも、身近な人の死も経験した。スクリーンはそこに「ある」ものを、かわらずに映してくれるだろうか。29年を経てあれが能登だったことを知った自分に、作品について語る言葉はまだあるだろうか。

 

 

 


『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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