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何を読んでも何かを思い出す

空き地と始発

 バスロータリーに降り立つと、近くにあったクリーニング店がいつのまにか消え、小石だらけの空き地になっていた。黄と黒の標識ロープがゆるく張りめぐらされ、それまでは目にすることのなかった、奥の木造家屋の黒ずんだ木板が剥き出しになっていた。

 ロータリーをめぐる歩道には、駅へと向かう乗客の流れが自然にできている。電車に乗るわけではないので、その流れをおのずと強引に、押しひらくように歩く。流れはまるで、駅へ向かわないお前が間違っている、と言いたいような頑なさだ。流れに逆らいながらふと目の前に現れた空き地をみとめたとき、視覚と記憶が脱臼を起こしたような違和を覚えた。ほぼ毎日この道をとおっているはずなのに、店が閉まったことにも、建物が壊されていることにも気づいていなかった。

 

 人波をかわし、いつものように空き地を横目にしたとき、見慣れないものが視界に入った。百円均一の店でよく販売されている、直径30㎝ほどの緑色のビニールボールが、空き地の中央に転がっていた。ボールは球形を保っており、新しいもののように見えた。

 石ばかりの空き地は広くなく、そばには車の往来もあるので、ボール遊びに向いているとは思えない。なぜここにビニールボールが現れ、置き去りにされているのかぼんやり考えた。ボールは数日間、空き地で鈍い光を放ち、白黒の画面にはじめて色が出現したような空間の歪みを、そこにだけ発生させていた。

 

 自分にも他人にも意味があるとは思えない、瑣末な景色の連なりで世界はできている。あなたの景色とわたしの景色が重なるかどうかわからない。それらはいっとき現れて、すぐにあとかたもなく消えてしまう。

 

 学生のころ所属していた映画制作のサークルで、関わったいくつかの作品を覚えている。出来事があり、人が動き、台詞が生まれ、それらを現実の光景の上に流しこむとき、物語と景色のあいだに横たわる距離を、自分では縮められる気がしなかった。映画を観賞していても、いまここにある現実と、目の前のもう一つの風景のあいだで、この身体をどこに置けばいいのかわからなくなることがある。

 これらの距離について誰かに伝えたいと思うとき、言葉による表現が自分にとっていちばん近いように感じた。言葉の硬質で、一切の匂いのないように思えるところがよかった。

 空き地に転がる緑のボールについて考えながら、はじめて撮影した映画のことを思い出した。それは学校中の時計を少しだけ早めようとする男子高校生の話で、早朝の撮影を許可してくれた、海の近くにある同級生の出身校へ、数人で向かった。

 友人たちと夜を明かすのも、海沿いの列車も、始発に乗るのも初めてだった。映画の内容の大半は忘れたけれど、5月の始発列車で友人の制服を羽織らせてもらったことと、会話の減った帰りの電車の中で、著名なF1レーサーがレース中に事故死したことを、あちこちで広げられたスポーツ新聞の、大きな見出しで知ったことを覚えている。制服の重みと、霞んだような朝の白い明るさと、青と赤で彩られた大きなゴシック体のことを、いまこうして言葉にしてさしだしている。 

 

 

 

 

 

 『何を読んでも何かを思い出す』 大塚真祐子

言葉で何かを思い出すとき、目の前の日常は意識の裏に隠れるけれど、消えたわけではない。ただ、自分の身体がどの地点にあるのかわからなくなって、ふたたび言葉を手がかりにする。日々はそうしてめぐる。読むこと、書くこと、女性として生きるということなど、言葉をとおして見えた景色を綴ります。

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著者略歴

  1. 大塚真祐子

    文筆家・元書店員。毎日新聞文芸時評欄、出版社「港の人」HPにて「まばたきする余白ー卓上の詩とわたし」連載中。
    執筆のご依頼はこちら→ komayukobooks@gmail.com

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