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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第二十二回 〈遊び〉の形而上学――〈子ども〉の可能性

〈子ども〉の可能性

 とはいえ、一体どれほどのことが〈子ども〉には可能なのだろうか。たしかに、〈子ども〉であれば、大人にはできそうにないことも、現に容易くできてしまうことはある。たとえば、〈子ども〉は人の物を取ってしまうことがあるが、これをする大人はなかなかいない。というのも、大人は、これまでの(似た)経験から、そんなことをしたら、どんなことになるのかを、つい考えてしまうからである。つまり、そんなことをしようとしても、取られた人が困るにちがいないことが、ふと大人の頭にはよぎる。なぜなら、私たち大人には、――実体験でなくても、――人の物を取って困らせた経験(や人に物を取られて困った経験)があるからである。すると、人の物を取ることは、大人にとっては、習慣によって限定され、まさに倫理的に不可能になる[67]。大人はそれに続く結果をつい習慣的に想像してしまうからである。むろん、〈子ども〉には、これがなく、したがって無限定の可能性が開かれている。しかし、大人には習慣によって限定された可能性しか見えないのである。

 では、習慣による限定のない〈子ども〉には、どれほどの可能性が開かれているのだろうか。それは本当に文字通りに無限定であるのだろうか。本当に〈子ども〉は何でもできるのだろうか。たとえばMrs. GREEN APPLEの楽曲「僕のこと」には次のような歌詞がある。

 

僕らは知っている 空への飛び方も 

大人になるにつれ忘れる

限りある永遠も 治りきらない傷も

全て僕のこと 今日という僕のこと[68]

 

もしここで「僕(ら)」が〈子ども〉であるとしたら、〈子ども〉は「空の飛び方」さえもわかっている、と言うべきだろうか。〈子ども〉には空を飛ぶことさえ可能なのだろうか[69]

 たしかに、そんなことは物理的に不可能だ、と言いたくなる。だが、そう言いたくなるのは、私たちが大人だからである。つまり、私たちに見える可能性は習慣によって限定されているからである。これまで人が(自力で)空を飛んだことは一度もなかった。すると、そもそも人が空を飛ぶことはありえない、と大人はつい決めてかかる。でも、これまではなかったとしても、どうしてそもそもありえないとまで言えるのか。もちろん、そもそもありえないのなら、これまでも(これからも)ないのでなければならない。しかし、これまではなかったとしても、これからはあるかもしれない。そして、これからはあるのなら、そもそもありえないわけではない。だから、これまではなかったとしても、そもそもありえないとまでは言えない。

 では、どのような意味で人が空を飛ぶことがありうるのだろうか。もちろんそれが物理的に可能であるとは言いがたい。というのも、私たち大人は、人が空を飛ばないことを、これまでの習慣から、たしかに知っているからである。だが、それは論理的には可能なのである、と(大人も)言わざるをえない。なぜなら、人が空を飛ぶことは、実は私たち大人にもちゃんと考えられるからである。もちろん、論理的に矛盾のあることは、それがどのようなことであるのかを(論)理に適った仕方で捉えることができない。しかし、人が空を飛ぶことは、――物理(法則)には反しているが、――論理(法則)には反していない。そこには何の矛盾もなく、したがって、それがどのようなことであるのかをはっきりと理解することができる。だから、人が空を飛ぶことは、実は大人にとっても、論理的には可能なのである。(さもなければ、どうして大人にも『ドラゴンボール』が楽しめるのか。)すると、無数の論理的な可能性が実は大人にも開かれていることになる。論理的に矛盾のないことは大人にも思考できるからである。けれども、大人にはそれを限定する習慣がある。だから、大人には習慣によって限定された可能性しか見えないのである。だが、〈子ども〉には、習慣がないので、論理的な可能性がそのまま開かれている。この意味で〈子ども〉は「空への飛び方」を「知っている」のである。

 さて、ここでもすでに三つの可能性が示唆されたように、明らかに可能性には異なる種類がある。つまり、倫理的可能性、物理的可能性、論理的可能性の三つである。むろん他にも(さらに詳細な)分類は考えられる。たとえば、倫理的可能性と物理的可能性の間には、いわゆる「技術的可能性」の領域が設けられるかもしれない[70]。だが、ここでは可能性の詳細な分類が問題なのではない。というのも、〈子ども〉には可能性を限定する習慣がないからである。たしかに、私たち大人は、これまでの習慣から、物理的に可能なことを限定したり、さらに物理的には可能でも倫理的には不可能なことを区分したりする。だから、私たちには、人が空を飛ぶ物理的な可能性は見えないし、人の物を取るなんて倫理的にありえないと言いたくなる。しかし、そもそも、〈子ども〉には、習慣がないのだから、可能性の限定もないのである。だから、〈子ども〉には無限定の可能性が広がっているのである。

 すると、たしかに、空を飛ぶことも、人の物を取ることも、〈子ども〉には論理的に可能であることになる。だが、〈子ども〉に無限定に広がるのは、本当に論理的可能性(だけ)なのだろうか。もちろん、三つの可能性のうち、可能性の範囲がもっとも広いのは、論理的可能性である[71]。というのも、倫理的に可能なことは、物理的にも可能だが、物理的に可能なことは、論理的にも可能だからである。だが、〈子ども〉の可能性は本当に論理的可能性の範囲に収まるのだろうか。

 再び「僕のこと」の歌詞に目を向けよう。そこには、大人は忘れているが、〈子ども〉は「知っている」ことの候補として、さらに二つのことが見て取れる。すなわち、「限りある永遠」と「治りきらない傷」である。これらのうち、私たちの目を引くのは、もちろん前者の「限りある永遠」である。というのも、――「治りきらない傷」は物理的にも可能であるが、――もし「永遠」ということが「限りない」ことであれば、それは、矛盾を含意し、したがって論理的にも不可能に見えるからである。つまり、「限りある」限りないことは、私たちには思考することさえできない。それがどのようなことであるのかが、私たちにはまったく捉えられない。(私たちにわかるのは、それが矛盾しているということだけである。)だが、もしかしたら、〈子ども〉には「限りある」限りないことがわかるのだろうか。実は〈子ども〉には「限りある永遠」が可能なのだろうか。

 なるほど、大人にはわからないことが、実は〈子ども〉にはわかっているのかもしれない。「空への飛び方」はその好例であった。だが、大人が「空への飛び方」を知らないのは、大人には習慣があるからである。つまり、大人に見える可能性は習慣によって限定されている。大人の可能性の視界に映るのは習慣的なことだけである。しかし、〈子ども〉には習慣がないのである。だから、〈子ども〉には無限定の可能性が見えるのである。

 とはいえ、私たちに「限りある永遠」がわからないのはどうしてだろうか。もちろんそれは、――「永遠」が「限りない」のであれば、――そこに矛盾があるからである。私たちには、矛盾することは、それがどのようなことであるのか、よくわからない。つまり、私たちには論理的に可能なことしか捉えられない。この意味で私たちの可能性は論理に(も)縛られている。だが、もし〈子ども〉には矛盾さえ可能であるのなら、〈子ども〉の可能性は論理に(も)縛られないのだろうか。たしかに習慣のない〈子ども〉は倫理的でも物理的でもない。だが、さらに〈子ども〉は論理的ですらないのだろうか。いや、そんなことはない。むしろ〈子ども〉は論理的でしかない。

 もしかしたら、論理的な〈子ども〉なんかいない、と考える人もいるかもしれない。しかし、そう考えてしまうのは、以下のいずれかの思い違いがあるからかもしれない。

 まず、習慣のない〈子ども〉には論理もないとはかぎらない。たしかに、矛盾が現れるのは言語であるし、言語は習慣(的な学習)によって身に付く。しかし、言語の習得が習慣的であるからといって、論理までもが習慣的であるとはかぎらない。というのは、用いる言語によって論理が異なるわけではないからである。たとえば、「PならばQである(if P then Q)」と「Qでない(not Q)」から「Pでない(not P)」を導くのは、日本語でも英語でも(論理的に)妥当である。この意味では論理は習慣的ではない。

 なお、仮に論理的であることに言語の習得が不可欠であるとしても、〈子ども〉が言語以前の存在である必要はない。というのも、論理的であることは〈子ども〉の無理由の実現を妨げないからである。たしかに論理的でしかない〈子ども〉には論理的な可能性しか見えていない。しかし、論理的であることは何かを実現する理由にならない。なぜなら、実現することはすべて(なぜか)論理的だからである。だが、大人の可能性の領域は習慣によって因果的に限定されている。つまり、大人の目には物理的ないし倫理的な可能性しか映らなくなる。だから、大人にとっては物理的な原因とか倫理的な結果とかが実現の理由になるのである。

 また、論理的であることは、物理的であることでも、倫理的であることでもない。これは(少なくともここでの議論では)当たり前に聞こえるかもしれないが、たとえば、合理性ということには、物理的であることが含意されることがあるし、あるいは、不合理ということには、倫理的でないことが意味されることがある。すると、たしかに、理に適っているということが、論理だけでなく、物理にも倫理にも適っていなければならないように聞こえてくる。だが、(論)理に適っているということは、文字通りには、論理的な矛盾がないということである。だから、物理にも倫理にも適っていなくても、論理に適っているということはもちろんある。そして、〈子ども〉には、習慣がないのだから、たしかに物理にも倫理にも適わないことさえ可能である。しかし、論理が習慣的でないなら、習慣のない〈子ども〉だって論理的であれる。だとすれば、〈子ども〉にはまさに論理的な可能性がそのまま広がっているのかもしれない。

 したがって、〈子ども〉が論理的でない、と言い切ることはできない。むしろ論理的でないのは大人の方である。大人は物理的で倫理的である。習慣的で因果的である。だから、大人はつい、これまでの習慣から、これからの可能性も考える。しかし、これからがこれまでと同じである(と信じる)ことに論理的な正当性はもちろんない。なぜなら、これからがこれまでと異なる(と考える)ことに矛盾はないからである。実はこの論理的な可能性は大人にも開かれている。けれども、これが大人には見えないのである。これまでの習慣から、そもそもの可能性が限定されてしまうからである。そして、大人には因果的(つまり物理的ないし倫理的)な可能性しか見えなくなる。だが、〈子ども〉には習慣による可能性の限定がないのである。だから、〈子ども〉には論理的な可能性がそのまま見えている。〈子ども〉には矛盾のないことは何でも可能なのである。

 矛盾のあることは、正直なところ、私たちにはよくわからない。もしかしたら、「限りある永遠」も〈子ども〉には可能なのかもしれない。だが、もし仮にそれが実現したとしても、私たちにはそれが捉えられない。というのも、私たちは(なぜか)、どんなことであれ、(論)理に適った仕方でしか捉えられないからである[72]。すると、たとえ矛盾が実現したとしても、私たちには、それがわからないので、それに驚けないことになる。とはいえ、私たちは〈子ども〉の実現の〈遊び〉には驚かされるのである。だから、私たちが驚かされるのは、もちろん矛盾の実現ではない。そうではなくて、私たちを驚かせるのは、〈子ども〉の無理由の実現である。だが、ここで理由がないということは、論理がないということではない。むしろ物理的ないし倫理的な因果こそが大人にとっての実現の理由である。しかし、そんな因果的な理由なしに何でも実現してしまうのが〈子ども〉である。たしかに、大人もまた、――たとえば哲学的な思考実験を通して、――実は論理的な可能性に気がつくことはできる。しかし、実は開かれている論理的な可能性が、まさに習慣によって限定され、見えなくなってしまうのである。だから、大人は、ただ論理的であることができず、つい因果的になってしまうのである。だが、〈子ども〉には、習慣がなく、したがって因果もない。〈子ども〉は因果ゾンビなのである。だから、〈子ども〉はただ論理的であれる。これが大人にはできないのである。

 

 

[67] よく知られているように、「倫理(ethics)」の語源である古代ギリシア語の「エートス(ethos)」には「習慣」という意味がある。

[68] Mrs. GREEN APPLE 「僕のこと」(楽曲)『Attitude』ユニバーサルミュージック合同会社.2019年10月2日.

[69] もちろん知っていることを現にするとはかぎらない。しかし、知っていることは少なくともできることではあるだろう。

[70] たとえば、可能性の種類が「論理的可能性」と「法則的可能性」と「技術的可能性」に分けられるなら、(秋葉剛史『形而上学とは何か』ちくま新書,2025年8月10日,201-203頁)、「技術的可能性」の範囲は「法則的可能性」よりも狭いことになる。しかし、そこにさらに倫理的可能性を設けるなら、「技術的可能性」の範囲は倫理的可能性よりも広いことになる。というのも、そもそも、技術的に可能なことしか、倫理的に推奨も抑制もされないからである。

[71] Cf. 秋葉剛史『形而上学とは何か』ちくま新書,2025年8月10日,203頁.

[72] もちろん、「限りある永遠」は、詩的なレトリックとして読まれる(べきである)なら、(論)理に適った仕方で捉えられる必要はない。だが、もしそれを哲学的に解することが許されるなら、――そして、哲学が(論)理に適っていなければならないのなら、――「永遠」を様相的に限りがないこと(つまり無限定の可能性)と考え、それが〈子ども〉に限られていると捉えるなら、個人的には一番しっくりくるかもしれない。

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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