第二十三回 〈遊び〉の形而上学――無限定の〈遊び〉(前半)
無限定の〈遊び〉(前半)
わからないからやってみる、という遊びもある。しかし、これはもちろん大人の遊びである。というのも、それは、わかることを目的とするからである。つまり、これは〈子ども〉の無理由の〈遊び〉ではない。無理由の〈遊び〉は現にやったところで、新たに何かを得るわけではない。わかっていることをわざわざ現にするのだから、わかっていることが現にそのまま生じるだけである。
そんなことをして、何になるのか、と大人は思わず言ってしまうかもしれない。だが、もちろん他の何かのために〈子ども〉はそうするのでなく、ただそれ自体を実現するために、現に何でもしてしまうのである。これが〈子ども〉の無理由の実現である。〈子ども〉はわかっていることを何でも〈遊び〉で無理由に実現してしまうのである。だが、無理由に何かを実現すること、これが大人にはまずできない。なぜなら、そもそも因果的な理由のあることしか大人にとっては可能でないからだ。つまり、習慣のない〈子ども〉にはまさに無限定の可能性が広がっているが、大人の可能性は習慣によって因果的に限定されている。だから、何であれ大人が(意図的に)現にすることには、物理的な原因とか倫理的な目的とかがある。たとえば、ストレス(発散)のために、あるいは、他者と心を通わせるために、大人は遊ぶ。だが、〈子ども〉は何の理由もなしに遊ぶのである。つまり、〈子ども〉は何であれ可能なことをただ実現するだけである。これこそが(形而上学的な意味で)自己目的的な〈遊び〉である。だが、これが私たち大人には難しいのである。しかし、難しいからこそ、私たちは〈子ども〉に驚かされるのである。
では、どうして〈子ども〉は可能なことをたんに実現してしまうのだろうか。これが〈子ども〉の無理由の実現に驚かされ生じた問いである。もちろん、私たち大人が、因果的な理由をもって、これに答えることはできない。何の理由もないのが、たんなる実現の〈遊び〉だからである。とはいえ、わかっていることをただ現にするということは、一体どういうことなのか。
なるほど、わかっているから現にするということは、私たちにもあるかもしれない。たとえば、私たちは、魅力的なアーティストのライブ映像や、驚異的なスポーツのプレー動画などを、何度も何度も繰り返し見てしまうことがある。むろんこれは何か新たな刺激や発見を求めて反復されるのではない。そうではなくて、まさに知っているあれをまた見たいから現に見てしまうのである。もちろん、冒頭に書いたように、わからないから現にしてみるということもある。たとえば、ディズニーランドで新しいアトラクションが始まったら、ぜひ行って試してみたくなる。だが、新たな体験がなければ、そこで遊べないわけではない。つまり、すでに何度も足を運んで見知ったものばかりでも、まさにその見知ったものをまた味わいたくて、ついそこへまた行ってしまうということがある。もしかしたら、むしろ本当のディズニー好きはそんな風に遊んでいるのかもしれない。
だが、これは果たして〈遊び〉なのだろうか。たしかに、わからないからすることと、わかっているからすることは、明らかに互いに異なる。なぜなら、前者には、現にした後では、新たにわかったことが付け加わるが、後者では、現にした後でも、何も新たに付け加わる内容はなく、まさにわかっていたことを現にしただけだからである。(さもなければ、まさに見知ったあれをまた現にすることにはならない。)すると、この意味では後者はたしかに〈遊び〉であるだろう。というのも、それはわかっていることのたんなる実現だからである。つまり、それは、無理由の実現であって[73]、それゆえに自己目的的な〈遊び〉なのである。
第十九回の連載で論じた神の世界創造を思い出して欲しい。神の世界創造は、まさにわかっていることをそのまま現にすることの典型である。だが、世界には異なる二つの創り方があった。ライプニッツの神によるものとアリストテレスの神によるものである。そして、これらのうち、わかっているから現にするというのは、ライプニッツの神の創り方である。それは(最善の世界が)可能であるから実現するということである。もちろん可能な世界がすべて実現されるとはかぎらない。――神にとっては、あらゆる(矛盾のない)世界が可能であるが、実現されるのは最善の世界のみである。――だから、わかっていることは現にすることの必要条件でしかない。つまり、何かが実現するとしたら、そもそもそれは可能である必要がある。しかし、何かが可能であるとしても、それだけで十分にそれが実現するとはかぎらない。だから、もちろん、ライプニッツの神にとっては、わかっていることは現にすることの十分条件ではない。にもかかわらず、ライプニッツの神はなぜか最善の世界を実現したのである。むろん、最善であることは、それを実現した理由にはならない。なぜなら、それは、実現されなくても、最善だからである。実現によって最善世界に付け加わる新たな内容は何もない。それは、実現されても、されなくても、ずっと最善なままである。つまり、(最善)世界の実現には、事象内容的な理由が何もない。この意味で(最善)世界は〈遊び〉で創造されたのである。
だから、ライプニッツの神は、せっかく最善の世界を創っても、せいぜい「やはり最も善い(もちろん知っていたのだが)」と思えるだけである。――あるいは、「できた」とは思えるかもしれないが、もちろんできることも知っていたのである。――もし他に何か思うところがあれば、最善世界の創造に神は(神であるのに)失敗したことになる。だが、そんなことは(神であるのだから)もちろんありえない。
けれども、私たちの〈遊び〉には明らかに失敗がある。たしかに、私たちにも、よく知っている素晴らしいパフォーマンス動画を見返して、「やはり素晴らしい(知っていたけど)」と思うことはある。しかし、私たちは、全知ではないので、つい新たな発見をしてしまうことがある。むろんその発見によって魅力が増えることもあれば減ることもある。だが、魅力が増えようと減ろうと、もはやそれはよく知っていた元のあれではない。元のあれとは(付随する)事象内容が異なるからである。すると、たとえ偶然だとしても、わかっていたこと以上に現に何かが生じてしまえば、私たちはたんなる実現の〈遊び〉に失敗したことになる[74]。しかし、運よく失敗せずに、まさにわかっていることを現にそのままするのなら[75]、ライプニッツの神の如く無理由の実現を遊ぶことができる。もしかしたら、これが私たちにできる最高の〈遊び〉なのかもしれない。わかっているからこそ現にするということは、たしかに私たちにもあるからである。
すると、私たちもまた〈子ども〉になれることがあるのだろうか。つまり、ときには、〈子ども〉のように、何の理由もなしに、ただわかっていることを現にしてしまうのだろうか。たしかに理由なしに何かをすることは私たちには難しい。それと因果的につながることが私たちには見えているからである。だが、私たちには、たとえば、寝(ぼけ)てしまったり、酒に酔ってしまったり、激しく怒ってしまったりすると[76]、因果的なつながりを忘れてしまうことがある。そして、そのようなときには、(付随する結果を忘れ、)わかっていることをただ現にしてしまうことがある。もちろん、ライプニッツの神は、酩酊したり憤激したりしないので、世界の因果的なつながりもすべて知りながら、それでもそれをただそのまま実現することになる。すると、これは、まさに神業であって、私たちには驚くべき〈遊び〉である。だが、もちろん〈子ども〉だってすべてを知っているわけではない。むしろ〈子ども〉は因果的なつながりを知らない。にもかかわらず、〈子ども〉はライプニッツの神の如く遊ぶのである。それは〈子ども〉が可能なことを何でも〈遊び〉で実現してしまうからである。それゆえに、ただわかっていることを現にするということは、――それに続く結果がどうであれ、――それ自体は〈遊び〉である、と言ってよい。というのも、それは、まさに無理由の実現であって、ライプニッツの神の如き〈遊び〉だからである。この意味では私たちもときには〈子ども〉のように遊べるのかもしれない。
[73] したがって、わかっているからする〈遊び〉では、わかっていることは現にすることの理由ではありえない。たしかに、わからないからする遊びでは、わからないことが現にすることの理由になる。なぜなら、それは、わかることを目的とする、理由のある遊びだからである。だが、わかっているからする〈遊び〉には理由がないのである。だとすれば、わかっていることは現にすることの条件である、と見るべきであろう。というのも、わかっているからする〈遊び〉では、まず明らかに、わかっていることが現にすることの必要条件ではあるからだ。だが、論理的に可能なことがわかっていても、たとえば因果的な理由があるのなら、論理的に可能なことがすべて実現されるとはかぎらない。なぜなら、そもそも可能なこと自体が因果的に限定されるからである。けれども、無理由の実現の〈遊び〉では、まさにわかっていることが現にすることの十分条件にもなるのではないか。つまり、〈子ども〉は、わかっていることを何でも、ただわかっているだけで現にしてしまうのである。(あるいは、少なくともアリストテレスの神にとっては、わかっている形相はすべて現実態なのである。)
[74] この意味では、たしかに、「ひとは、遊びのために、すなわち、遊びの僥倖のために遊ぶ」(西村清和『遊びの現象学』勁草書房,2023年3月15日,319頁)のである。
[75] もちろん、細部をよく見れば、いくらでも異なる点が見つかるにちがいない。しかし、まさに遊ぶためには細部なんて気にしてはならないのである。つまり、まさにわかっていることをまた現にするためには、あらゆる部分を詳細にわかっている必要はなく、むしろ全体をぼんやりとわかっていればよいのである。
[76] Cf. アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』高田三郎訳,岩波文庫,2001年9月25日,24頁.あるいは、もしかしたら、(悪い結果が見えなくなって、)ただ何かを実現してしまうのは、まさにそれへの欲望に駆り立てられるからなのかもしれない(Cf. アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』高田三郎訳,岩波文庫,2001年9月25日,26頁)。とはいえ、欲望が〈遊び〉の原因であるのなら、それは無理由の実現ではなくなるので、ここでは特に実現への欲望を前提しないが、無理由の〈遊び〉が(意図的な)行為であるのなら、実現された〈遊び〉には、もちろん、実現したい欲望、〈遊び〉たい欲望があったのだ、と言うこともできるだろう。


