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遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第二十四回 〈遊び〉の形而上学――無限定の〈遊び〉(後半)

無限定の〈遊び〉(後半)

 さて、ライプニッツの神による(最善)世界の創造も、無理由の実現であるのだから、もちろん十分におかしな〈遊び〉である。なぜなら、最善の世界は、わざわざ実現されなくても、すでに可能なままで最善である(ことはもちろん知られている)し、実現されたところで(事象内容は)何も変わらないからである。とはいえ、可能なだけのことと実現していることは、もちろんある意味ではまったく異なる。なぜなら、もし可能な最善世界と現実の最善世界が本当にあらゆる意味で異ならないなら、ライプニッツの神は何もしていないことになるからである。だが、ライプニッツの神は、何もしていないのではなく、可能な最善世界に、言わば現実性を与えて、現実の最善世界にしたのである。この実現がまさに驚くべき神業である。なぜなら、一体どうしたら可能なことが現実になるのかが、私たちにはまったくわからないからである。つまり、実現するとはそもそも何をすることなのか。一体どうしたら可能なことが現実になるのか。こうした問いには(少なくとも私は今のところ)ただ驚くことしかできない。だから、何であれ、何かを現にするということは、それだけで本当に驚くべきことなのである。だが、ライプニッツの神の御業は、驚くべきであるだけでなく、さらにおかしくもあるのである。というのは、もちろんそれが無理由の●●●●実現だからである。つまり、どうして、他の何かでなく、この世界が現実であるのか。この問いには何らかの(因果的な)理由をもって答えることはできない。というのも、最善の世界が可能なままでも最善であるように、どんな(因果的な)理由もすでに可能な世界に内在しているからである。しかし、それゆえに、それは、驚くべき、かつ、おかしな〈遊び〉なのである。つまり、実現ということが、驚くべきことなのに、そんな神業を何の理由もなしにしてしまうのが、おかしいのである。

 とはいえ、たしかにライプニッツの神の〈遊び〉もおかしいが、さらにおかしいのはアリストテレスの神の〈遊び〉である。というのも、アリストテレスの神は、すでに現実(態)である形相を、さらに可能(態)である質料に実現してしまうからである。もちろん、アリストテレスの神は、神であるのだから、世界のすべてを知っている。しかし、ライプニッツの神と違って、アリストテレスの神が有しているすべての形相はすでに現実(態)なのである。にもかかわらず、現実であるすべてのことを、さらに可能なところに実現してしまうのが、アリストテレスの神の〈遊び〉である。これはライプニッツの神のそれに輪をかけて無駄な〈遊び〉である。だが、これがさらに無駄であるのなら、これこそが〈子ども〉の本当の〈遊び〉なのではないか。つまり、〈子ども〉の真骨頂の〈遊び〉は、ライプニッツの神の如き〈遊び〉でなく、アリストテレスの神の如き〈遊び〉であるのではないか。なぜなら、〈子ども〉は、わかっているから●●現にするというよりは、わかっているのに●●現にするからである。

 とはいえ、――可能であるから実現するのでなく、――現実であるのに実現するということは、一体どういうことなのか。本当に〈子ども〉は、すでに遊んでいるのに、さらに遊んでしまうのだろうか。

 なるほど、これはたしかにニーチェの語る〈幼な子〉の精神に似ているかもしれない。というのも、〈幼な子〉の精神は、現に生きる世界の実現を自ら新たに肯定し、まったく同じ世界をそのまま永遠に繰り返せるからである。だが、〈子ども〉は「よし!もう一度!」と遊ぶのではない。〈子ども〉は常に遊んでしまっているのである。だから、すでに遊んでいる〈子ども〉がさらに遊んでしまうのは、「ひとつの新しいはじまり」[77]ではない。それは、始まりも終わりもない〈遊び〉であり、同じことをただひたすらに現にするだけの〈遊び〉である。これが〈子ども〉のしつこさである。〈子ども〉は二度でも何度でもバケツに砂を入れる。きれいな水を汲み直してきても、また同じように砂を入れる。同じことを何度でも現に繰り返す。これを止めるのはいつも大人である。大人はすべてを因果的に見てしまうからである[78]。だが、それでも〈子ども〉は遊び続ける。つまり、〈子ども〉は、遊ぶ(事象)内容を変え(させられ)ても、まだ遊んでいることに変わりはない。〈子ども〉は、何をしようとも、いつでもどこでも遊んでしまう。これは大人にも止められない。だから、〈子ども〉がすでに遊んでいるのにさらに遊んでしまうのは、同じことの無限回の〈遊び〉であるとはかぎらない。〈子ども〉は、遊ぶ(事象)内容に関わらず、ただずっと遊んでいるからである。すなわち、それは、(事象)内容に囚われない、無限定の〈遊び〉である。

 すると、もし仮に、ライプニッツの神が、現実の(最善)世界をさらに実現してしまうのなら、アリストテレスの神に近づくのかもしれない。というのも、さらに(最善)世界を実現したところで、すでに現実である(最善)世界と本当に何も――つまり事象内容だけでなく現実性さえも――変わらないからである。これは、この(最善)世界が現実であるのに、さらに同じ(最善)世界を実現する〈遊び〉である。そして、もしこれが永遠に回帰するのなら、むろん無限回の〈遊び〉になる。だが、さらにアリストテレスの神に倣うなら、――もし本当に最善のもの以外も可能であるなら、――可能な世界はすべて実現されなければならない。というのも、アリストテレスの神の下では、あらゆる形相がすでに現実(態)だからである。すると、もし仮に、最善であることに限られないのであれば、――もはや(最高善としての)神ではないかもしれないが、――ライプニッツの神は、アリストテレスの神の如く、無限定の〈遊び〉を遊ぶことになる。そして、すべてがすでに現実であるのにさらにまたすべてを実現してしまうのなら、これこそは神にのみ許された究極の〈遊び〉である。

 〈子ども〉は、もちろん、全知全能でも永遠でもないので、無限回の無限定の〈遊び〉は遊べない。しかし、遊べることは何でも何回でも遊んでしまうのが〈子ども〉である。可能なことは何でも無理由に何回でも実現してしまうのが〈子ども〉である。この意味で〈子ども〉は神の如く遊ぶのである。

 たしかに、大人にも、わかっているから現にするということはある。これは、まさに知っているそれ自体の実現を目的とする。だから、それ以外の何らかの発見を目的とする遊びよりもいっそう〈遊び〉である。(そもそも、何らかの発見を目的とするのは、遊びでなく、学びである。)これがおそらく大人の最高の〈遊び〉である。しかし、因果的な大人には、ただ現にすることが本当に難しい。何かいいことがわかったとしても、それに因果的につながることが見えてしまうからだ。たとえば、通勤の途中で急に思い立ってそのままディズニーランドに行ける大人はまずいない。そこに行けば、またあれが味わえると知っているのに、ただ現に行ってみることができない。仕事をさぼったらどうなるかも知っているからである。だから、大人が、それをただ現にするには、それと因果的につながることが(見え)なくならなければならない。この意味で大人の〈遊び〉にはわかっていることと現にすることの間にギャップがある。

 だが、〈子ども〉にはわかっていることと現にすることの間にギャップがない。たとえば、ティッシュペーパーが箱から引き出せることがわかったら、〈子ども〉は一体どうするだろうか。もちろん、〈子ども〉には、どうしようかと考える暇なんかない。なぜなら、〈子ども〉は、いいことがわかったときには、むしろもうすでに現にしてしまっているからである。〈子ども〉は、ティッシュペーパーが引き出せることがわかったら、もうすでに現に何枚も引き出してしまっている。つまり、〈子ども〉は、できることは何でも、すぐに現にしてしまうのである。

 しかも、〈子ども〉は、すでに現にいいことがあるのに、さらに現にいいことをしてしまうのである。すでに遊んでいるのに、さらに遊んでしまうのである。だから、大人が「もう帰るよ」とか「もう寝るよ」とか言っても、〈子ども〉はいつでも「まだ遊んでいるの」と答える。〈子ども〉は、ずっと遊んでいるのだし、遊んでしかいないのである。

 では、私たちもまた本当に〈子ども〉になれるのだろうか。すでに遊んでいるのにさらに遊んでしまうことは、私たちにもあるのだろうか。すでに現実であることをさらに実現することが、私たちに本当にできるだろうか。たしかに、私たちは、それができないから、〈子ども〉の無理由の実現に驚かされるのである。だが、もはやそれに驚かず一緒に遊んでしまえるのなら、私たちもまた、〈子ども〉となって、アリストテレスの神の如く、わかっているのに現にする〈遊び〉を遊べるのだろうか。

 言うまでもなく、私たちは子どもにはなれない。というのも、子どもとは、成長し大人になる、「“不完全な大人”」[79]だからである。だから、大人が子どもになるのは、(論理的には可能であるが、)物理的に不可能なのである。だが、〈子ども〉とは、そもそも私たち大人からは独立の異質な存在である。つまり、大人は(人間)社会の一員であるが、〈子ども〉は(自然)世界の一部である。だとすれば、私たちが〈子ども〉になることは、(論理的にも可能であるが、)物理的にも可能であるのではないか。というのも、私たち大人と〈子ども〉の間には、そもそも何の物理的なつながりもないからである。

 だが、私たちが〈子ども〉になることは、(物理的には可能であるが、)倫理的には可能であるのだろうか。もちろん、〈子ども〉自体は、(人間)社会の外にいるのだから、無倫理的(amoral)な存在である。しかし、ときに私たちがライプニッツの神の如く遊べるとしても、〈子ども〉になりきれない私たちには、〈子ども〉になること自体が倫理的に不可能に見えるかもしれない。(あるいは、〈子ども〉になることが私たちには倫理的に可能に見えない、と言った方が正確かもしれない。)すると、やはり私たちの最高の〈遊び〉はライプニッツの神の如き〈遊び〉であるのかもしれない。つまり、私たちには、遊べるから、遊んでしまうことがある。これはたしかに〈子ども〉のようである。しかし、これは、わかっているから●●現にする〈遊び〉なのである。しかも、私たちは、ときに無理由に実現できるのだとしても、そもそも(最も)善いことしか無理由に実現できないのかもしれない。というのも、もし神が最高善であるなら、ライプニッツの神にとっても、そもそも最善の世界こそが実現されなければならないからである。もちろん、私たちには、何が最善であるかは、わからない。しかし、〈子ども〉になりたくても、なお(人間)社会の一員である私たちには、これまでの習慣から倫理的な可能性が見えてしまうのである。そして、それが善いものなら、(それを目的とするわけではないが、)わかっていることをただ現にすることができるが、それが悪いものなら、本当に〈子ども〉のように、ただ実現することはできないのである。

 すると、わかっているのに●●現にする〈遊び〉は、私たちにはできないのかもしれない。なぜなら、それは、本当に無駄であるし、善くないことになるかもしれないからである。しかし、〈子ども〉は、アリストテレスの神の如く、すでに遊んでいるのに、さらに遊んでしまうのである。これが〈子ども〉の無限定の〈遊び〉である。これが、私たちにはできないので、私たちは驚かされる。私たちにできるのは、わかっているから●●現にする〈遊び〉だけである。私たちは、ライプニッツの神の如く、遊ぶことしかできない。アリストテレスの神に憧れながら、〈子ども〉たちに驚かされながら。

 

 

[77] ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳,岩波文庫,2000年4月5日,40頁.

[78] たとえば、〈子ども〉は、いきなり現に爪を吹き飛ばせるが、大人は、まず息を吹き、それが爪を飛ばす、と考える(ので、それを現にするのが難しい)。しかし、因果ゾンビである〈子ども〉には、もちろん原因と結果の結合もないが、そもそも原因と結果の区別もないのである。

[79] 諸星大二郎「子供の遊び」『諸星大二郎自選短編集 汝、神になれ 鬼になれ』集英社,2008年8月6日,285頁.

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著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

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