朝日出版社ウェブマガジン

MENU

遊びのメタフィジックス ~子どもは二度バケツに砂を入れる~

第二十五回(最終回) 哲学の〈遊び〉

哲学の〈遊び〉

 最後に、これまでの〈遊び〉の探求を手がかりに、哲学の〈遊び〉について考えたい。ここで哲学の〈遊び〉というのは、第四回の連載で触れた「遊びとしての哲学」のことである[55]。また、そもそも私は以前に「哲学それ自体が遊びでありうる」[56]と書いていた。しかし、これまで〈遊び〉について見てきたことに基づくなら、〈遊び〉で哲学をするとは、どういうことになるのだろうか。

 たとえば、カイヨワが(原始および文明)社会の遊びを四つの基本的なカテゴリーに分けるように、あるいは、西村が人間の(存在様態としての)遊びに共通の骨格を見いだすように、私たちの遊びにはたしかに決まった型があるのかもしれない。だが、これまでの探求に鑑みれば、型にはまらない〈遊び〉がある。なぜなら、〈子ども〉はどんなことでも〈遊び〉にしてしまうからである。〈子ども〉にとっては、何であれ、〈遊び〉になりうる。〈子ども〉は、決まった型にとらわれず、まさに自在に〈遊び〉続ける。私たちがこれまで見てきたのは、そんな型破りの〈遊び〉である。

 では、〈子ども〉はどのように遊んでいるのだろうか。私たちが見つけたのは、無限定の可能性の無理由の実現であった。つまり、〈子ども〉は、何であれできることを、ただ現にしてしまっている。こんな〈遊び〉は大人にはできない。大人は何であれ(習慣から)因果的に捉えてしまうからである。だが、因果ゾンビである〈子ども〉は原因にも結果にも囚われない。この意味で〈子ども〉には本当に無限定の可能性が広がっている。そして、何の原因も目的もなしに、ただできることを現にしてしまうのである。これが〈子ども〉の実現の〈遊び〉である。〈子ども〉は、できることは何でも、何の理由もなしに〈遊び〉で実現してしまうのである。

 すると、哲学の〈遊び〉とは、できる哲学をただ現にするということになる。そもそも〈遊び〉は――幸福(エウダイモニア)と同じく――それ自体のために為される即自的な活動である[57]。換言すれば、〈遊び〉は自己目的的である。だから、〈遊び〉で哲学をするのなら、哲学それ自体を目的として実現しなければならない。哲学を金儲けのために使ってはならない。哲学によって名声を得ようとしてもいけない。哲学で社会を変えようとしてはならない。哲学に救いを求めてもいけない。それ以外の何かを目的とすれば、それはもはや〈遊び〉ではなくなってしまうからである。(だから、もちろん、哲学が〈遊び〉でないのなら、そのように哲学してもよいのだが、)哲学の〈遊び〉は、他の何かのためでなく、ただひたすらに哲学を実践しなければならない。この意味で哲学は本当に他の何の役にも立たない。しかし、そもそも〈遊び〉は、――幸福(エウダイモニア)と同じく――、「即自的に望ましき活動」[58]であるのだから、それ自体のために実現するのである。

 すると、哲学を〈遊び〉でするということは、ただ哲学を現にするということになる。とはいえ、哲学それ自体を目的とする、哲学の実現とは、一体どのようなものなのか。

 まず、そもそも哲学(フィロソフィア)とは知を愛し求めることである[59]。つまり、そもそも哲学は知ることを目的としている。だが、知を目的とする哲学それ自体を目的とするとは、どのようなことなのか。なるほど、知ることを目的とすることは、哲学の「構成的ルール」であるのかもしれない[60]。つまり、それは、たとえば将棋というものを成り立たせている定義のようなもので、そもそも、それがなければ、哲学ということ自体が可能でなくなってしまうようなものである。敵の王将を先に取ろうとしない人に将棋ができないように、本当のことを知ろうとしない人に哲学はできないのである。

 しかし、また知をすでに有する人も哲学することはできない。なぜなら、哲学は、知を愛でることでなく、知を愛し求める●●●ことであるからだ。たとえば、三歳くらいの子は「かくれんぼ」でうまく隠れられないことがある。そんな子は鬼である私にすぐに見つかってしまう。すると、私はもはや本当の鬼にはなれない。すでに見つけている子を本当に探すことはできないからである[61]。それゆえに、哲学(をする)者は、知らないことを知ろうとするのでなければならない。知っていることを愛でるのではなく、知ることを求めるのでなければならない。この意味で哲学は探求なのである[62]

 さて、幸いなことに、哲学の探求は(ほぼ)無限定である。その探求の可能性の領域は――私たちが理に適って捉えられる範囲では—―もっとも広く果てしない。なぜなら、それは倫理からも物理からも自由になれるからである。すなわち、それを限定するのは論理(ロゴス)だけである。哲学で、何を問うことができるのか、何を答えることができるのか、その可能性は原理的に論理(ロゴス)以外には限定されない。そのような(ほぼ)無限定の可能性をただ現に探求する。それが哲学の〈遊び〉である。

 だが、現に探求するとは、どのようにすることなのか。探求はどうしたら実現するのだろうか。もしかしたら、天才的に哲学を遊べる人なら、現に一人で思考するだけでよいのかもしれない。けれども、普通はそうはいかない。現に聞かなければ、現に読まなければ、他人の思考までは自分で考えることはできない。現に話さなければ、現に書かなければ、自分の思考でさえ自分で捉えることはできない。こうした探求の実践こそが、哲学の〈遊び〉である。

 だからこそ、ソクラテスはテアイテトスを驚かせた[63]。もし彼が一人で思考していただけなら、誰もそれに驚かなかったにちがいない。しかし、ソクラテスは現にテアイテトスに問い答え続けた。〈子ども〉ができることを何でも〈遊び〉で実現してしまうように、ソクラテスは可能な問答をただひたすらにテアイテトスとの現実の対話にしていく。この現実の対話にテアイテトスは驚き(タウマゼイン)を覚えた[64]。私たちが〈子ども〉の実現の〈遊び〉に驚かされるように。

 だが、驚き(タウマゼイン)から哲学が始まるのなら[65]、哲学には原因があることになるのではないか。驚き(タウマゼイン)こそが知を愛し求めることの原因なのではないか。けれども、自己目的的な〈遊び〉には原因(や目的)があってはならない。なぜなら、ある原因(や目的)のために始められたことは、その原因(や目的)のために為されてしまうからである。つまり、原因(や目的)のある遊びは、それ(ら)に限定されてしまうのである。しかし、たんなる実現の〈遊び〉は無限定でなければならない。

 すると、驚き(タウマゼイン)から始まる哲学は、むしろ〈遊び〉ではなくなってしまうことになる。〈遊び〉で実現できる哲学は、驚き(タウマゼイン)なき哲学であることになる。だが、それは本当に哲学であるのだろうか[66]。驚き(タウマゼイン)なしに本当に知を愛し求められるのだろうか。

 あるいは、〈遊び〉で実現できる哲学には、驚き(タウマゼイン)がないのだろうか。しかし、もしそうだとしたら、一体どうして哲学を〈遊び〉続けられるのだろうか。

 哲学の〈遊び〉は、もし本当のことがわかってしまったら、もはや現に続けられなくなる。なぜなら、知を愛し求める哲学の〈遊び〉は、まさに探求の実践であるのだが、愛し求めた知が発見されてしまえば、もはやそれは探求されえないからである。たしかに見つけた知を愛でることはできるかもしれない。しかし、それは、まだ知らないことを探し求めることでなく、したがって哲学ではありえない。

 たとえば、祖父母の家に電車で遊びに行くとすると、もちろん、電車に乗るのは、祖父母の家に行くためである。だが、電車好きの子どもには、まさに電車に乗ること自体が〈遊び〉になる。たしかに祖父母に会えるのは楽しみである。しかし、祖父母の家(の最寄り駅)に着いてしまったら、もはや電車に乗ることはできない。ここには手段を〈遊び〉とするジレンマがある[67]。つまり、祖父母の家にも行きたいが、もっと電車にも乗りたいのである。

 哲学も同じである。つまり、哲学的な真理は、いずれ発見もしたいが、もっと探求もしたいのである。たしかに、知を愛し求めることが哲学であるのなら、哲学(をする)者は真理を知りたいのである。しかし、それを探し求めること自体が〈遊び〉になってしまうのである。つまり、真理を発見するための手段である探求が、それ自体を目的として〈遊び〉で実現されてしまうのである。すると、ここに発見と探求のジレンマが生じる。なぜなら、発見と探求は(同じことについては)両立しえないからである。にもかかわらず、哲学的な真理について発見もしたいし探求もしたいのである。

 たしかに、ある同じことについては、発見と探求は両立しえない。だが、祖父母の家から帰るときには、――祖父母の家に行くための電車ではないが、――また電車に乗ることができる。これもまた哲学でも同じではないだろうか。つまり、また何かを探求したいのなら、また新たに何かを知りたくなればよいのである。それを愛し求めることで新たな探求がまた始められる。

 とはいえ、どうしたら何かを知りたくなるのだろうか。新たに知りたいことはどうして生じるのだろうか。たとえば、驚き(タウマゼイン)を感じた人は、もちろん知を愛し求め始めるだろう。だが、驚き(タウマゼイン)のない哲学もあるのではないか。なぜなら、哲学の問答の可能性は論理(ロゴス)のみが限定しうるからである。たしかに、私たちは、驚き(タウマゼイン)の情念(パトス)を感じ、そこから知を愛し求めるかもしれない。しかし、それは驚き(タウマゼイン)に限定された探求である[68]。だが、もし神の如く、ただ理性(ロゴス)によってのみ問答を実現するなら、まさにそれは――論理(ロゴス)以外には――現に無限定に問われ答えられることになる[69]。そして、むしろ哲学の〈遊び〉とは、何の原因も(目的も)なしに、ただ――論理(ロゴス)によってのみ――無限定に問答を実現することなのである。

 すると、驚き(タウマゼイン)なしにも、知を探し求めることができるのかもしれない。というのも、問いとはそもそも答えを求めているものだからである。つまり、問いさえあれば、答えを探し求めることはできる。問いがあるということは、答えが知りたいということなのだ。哲学(する)者とは、答える人でなく、答えを求め問う人なのである[70]

 だから、哲学の〈遊び〉では、ただ現に問い続けられなければならない。さもなければ、無限定の探求は実現されないからだ。そして、現に問いを出したのなら、次は現に答えを探さなければならない。そもそも、哲学とは知を愛し求めることであり、問いとは答えを求めるものだからである。しかし、その答えが現に見つかってしまえば、それを探し求める〈遊び〉はもちろん終わってしまうのである。それゆえに、哲学を〈遊び〉続けるのなら、まさに〈子ども〉がまたすぐに〈遊び〉始めてしまうように、またすぐに別の問いを投げかけるのでなければならない。問いが終わってしまえば、答えを探し求めること、つまり哲学それ自体も、終わってしまうのである。だが、〈子ども〉の如く探求を実践するのなら、もちろん哲学の〈遊び〉は終わらない。〈子ども〉は、すでに現に問いかけているのに、さらに現に問いかけてしまうからである。

 したがって、哲学が〈遊び〉になるのなら、探求の実践は終わらないことになる。なるほど、ときに哲学には終わりがないと言われるのは、このためであるのかもしれない。つまり、哲学が〈遊び〉になると、まさに無限定に問答を実現してしまうのである。それでは知の探求が終わるはずもない。だが、哲学が〈遊び〉にならないと、無限定の探求も実現されないのではないか。というのも、哲学に何か原因(や目的)があるのなら、そもそもの探求の可能性がそれ(ら)に制限されてしまうからである。だとすれば、哲学の無限定の探求は、まさに自己目的的な〈遊び〉でこそ、実現されるのかもしれない。

 だが、哲学の〈遊び〉が無限定の探求を実践するとはいえ、驚き(タウマゼイン)から始まる哲学は、一体どうしたら探求を実践し続けられるのだろうか。それもまたどこかでは〈遊び〉にならざるをえないのだろうか。あるいは、驚き(タウマゼイン)自体にそこまでの力があるのだろうか。

 もちろん、驚き(タウマゼイン)から哲学を始めた人は、ただ本当のことを知りたいだけであるのかもしれない。つまり、たしかに真理は知りたいのだが、できればそれを探求したいわけではないかもしれない。だが、もし仮にどんな真理でも本当に手に入れられるとしたら、あなたは一体どうするだろうか。もしあなたがそれを喜んで受け入れるなら、むろんあなたにジレンマは生じない。しかし、あなたは、もはや何も探し求められず、したがって哲学を〈遊び〉えなくなる。私自身も、もちろん、〈遊び〉について真理を知りたくて、「遊びのメタフィジックス」を書き始めた。しかも、それは〈子ども〉への驚き(タウマゼイン)から始まった哲学であった。にもかかわらず、私は、それを知ることができるとしても、「もう少し待って」と言ってしまうのかもしれない。というのも、私はまだそれを現に探し求めたいからである。まだまだ哲学を〈遊び〉たいからである。

 

 

[55] 第四回の連載時にはまだ〈遊び〉という概念がなく、また、第四回の注【24】にも書いたように、そもそも「遊びとしての哲学」は『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』への書評で使われた表現であるので(鵜殿敬「「遊びとしての哲学」の側面を追求」『図書新聞』第3586号,武久出版,2023年4月8日,5頁)、ここでは「哲学の〈遊び〉」と言い換えたい。

[56] 成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』青土社,2022年9月28日,20頁.

[57] アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』高田三郎訳,岩波文庫,2001年9月25日,171頁.

[58] アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』高田三郎訳,岩波文庫,2001年9月25日,170頁.

[59] アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,28頁.

[60] この「構成的ルール」はサールの『言語行為』に由来するものである。「統制的ルール」が、エチケットのように、ある行為を統制するものであるのに対し、「構成的ルール」は、チェスのルールのように、ある行為を可能にするものである、と言える。(吉田寛「ルールはゲームを定義する」『ゲームスタディーズ:遊びから文化と社会を考える』吉田寛・井上明人・松永伸司・マーティン・ロート編,フィルムアート社,2025年6月30日,28頁.)

[61] もちろん、さらに探すふりを続けることはできるが、探すふりは本当に探しているのではない。

[62] いわゆる「探求のパラドクス」によれば、「知らないことも人は探求できない。何をこれから探求するかさえ、その人は知らないからである」(プラトン『メノン―徳について』渡辺邦夫訳,光文社,2025年5月20日,67頁)。しかし、なぜ知らないことを探すことができるのかについては、ここでは棚に上げておく。

[63] Cf. プラトン『テアイテトス』渡辺邦夫訳,光文社,2025年9月20日,87-88頁.

[64] 「タウマゼイン」は「不思議に思うこと」(プラトン『テアイテトス』渡辺邦夫訳,光文社,2025年9月20日,87-88頁)と訳されることもある。

[65] Cf. アリストテレス『形而上学(上)』出隆訳,岩波文庫,1998年5月6日,28頁;プラトン『テアイテトス』渡辺邦夫訳,光文社,2025年9月20日,87-88頁.

[66] もしかしたら、驚き(タウマゼイン)から始まることも、(本当の)哲学の「構成的ルール」であるとすることもできるのかもしれない。しかし、もしそうだとすれば、なぜか驚き(タウマゼイン)を感じた人にしか(本当の)哲学は可能でないことになる。

[67] もちろん、手段を目的としても、ジレンマが生じないことはある。たとえば、健康のために始めた運動は、それ自体が目的になってしまっても、なお副次的に健康をもたらしうるからである。しかし、手段を実行していると、けっして目的が達成されないのに、目的が達成されると、もはや手段を実行しえないときには、両方したいのに一方しかできない、というジレンマが生じるのである。

[68] すなわち、それは、肉体に限定された、私たち人間の哲学である。だが、それがまさに質料的に生じるのなら、もしかしたら、驚き(タウマゼイン)の情念(パトス)にこそ無限定の可能性が秘められているのかもしれない。そして、そこから始まる知の愛求が、ただ理性(ロゴス)によってのみ神業的に実現されるなら、まさに無限定の問答に現実的な形相が与えられるのかもしれない。

[69] とはいえ、神はもちろん探求はしないだろう。なぜなら、神はすでに無限定の問いと答えを実現しているからである。

[70] 哲学カフェの創始者として知られる、マルク・ソーテは次のように書いている。「哲学者とはあらゆる質問に対して答えられる人物ではない。(…)哲学者とは、質問する人、解決策としてまかり通っているものを厳密に再検討する人間なのだ」(ソーテ,マルク『ソクラテスのカフェ』堀内ゆかり訳,紀伊国屋書店,2023年5月16日,61頁)。

バックナンバー

著者略歴

  1. 成田正人

    成田正人(なりた・まさと)
    1977年千葉県生まれ。ピュージェットサウンド大学卒業(Bachelor of Arts Honors in Philosophy)。日本大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。専門は帰納の問題と未来の時間論。東邦大学と日本大学で非常勤講師を務める傍ら、さくら哲学カフェを主催し市民との哲学対話を実践する。著書に『なぜこれまでからこれからがわかるのか―デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)がある。

ジャンル

お知らせ

ランキング

閉じる