朝鮮通信使から日本に伝わったK文化
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皆さんの「そうそう!これ、聞きたかったぁ~」に答える連載『マニマニ教えて!今の韓国ヨギヨギ~(たくさん教えて!今の韓国こっちこっち~)』です。韓国で、または日本で韓国関連分野を研究している先生たちが今の韓国についてやさしく解説してくれます!韓国語版おまけ付きで、言葉の勉強もできるなんてチョアヨ(素敵です)>_< 連載を読み終える頃には、あなたも韓国通になっているかも?!
第8回は、鄭敬珍先生(釜山大学)です。江戸時代にもK文化アーティストの来日が話題に?アイドル的な人気すら博した朝鮮通信使との交流の歴史を教えていただきました。
執筆者: 崔銀景 河正一 飯倉江里衣
金根三 朴天弘 鄭敬珍
今や日本だけでなく、世界中で愛されているK(韓国)文化。みなさんがはじめてK文化に触れたのはいつごろですか?K文化のなかで特に興味を持っているジャンルは何でしょうか。実は、日本にK文化が伝播され、人気を博したのはここ最近のことではなく、今から約500年も遡る1600年代の江戸時代からだということをご存じですか。今回は江戸時代、K文化を日本に伝えた朝鮮通信使について記してみたいと思います。
朝鮮通信使とは、江戸時代に12回[1]に渡り朝鮮から日本にやってきた外交使節団のことです。今のように飛行機や新幹線、自動車のない時代、500人もの人が参加した通信使は、ソウルを出発した後、釜山から船を乗り継ぎ、対馬を経由して大阪へ、大阪から江戸までは陸路で移動しました。彼らは1年以上日本に滞在しながら各地を回りましたが、最終目的地である江戸では幕府の人々と交流し、朝鮮国王と江戸将軍からの国書を交換しました。それだけでなく、朝鮮人参をはじめ、絹織物、虎の皮、筆、墨、生きた馬、鷹などを贈り物として渡し、日本からの返礼品として銀や鎧、かぶと、長太刀、金屏風などを朝鮮に持ち帰りました。
一方で、通信使の中には、日本側の要人たちと面会する外交官のほかに、画家や文才のある学者、軍楽隊などK文化を披露するために派遣された人々もいました。なかでも当時は漢詩の唱和や馬乗りの曲芸である馬上才(ばじょうさい)がK文化として人気を集めました。漢詩の唱和を例にとると、日本の民衆は朝鮮の文人と直接会って詩や書をもらうために、通信使の宿泊先に押しかけていたそうです。1764年通信使の書記・金仁謙(キム・インギョム)の日記『日東壮遊歌』の1764年1月23日の記録には、「食事の前から大勢の日本人が詰めかける…大勢の者がいっぺんに(紙を)出すので、それを積めばあごに届くほどになる。さらに応じてやれば次々と限りなく紙を差し出してくる…我々に会いたい一心で二、三百里も離れた所から食料持参でここまで来て、五、六か月も待っていたとのこと…我々の仕事は昼夜を問わず、休む暇もない。」とあり、当時の慌ただしい様子を見せてくれています。
はるばる朝鮮から大勢の人が日本を訪れ、日本人と直接ふれあいながらK文化を披露し、さらにはお互い貴重な贈り物を交換する、それこそ親善を深めるということであり、「仲良くやっていこう」という意志の表れなのではないでしょうか。両国の先祖たちはK文化の伝播と受容だけでなく、日韓関係をよりたしかなものにするための努力をも惜しまなかったのでしょうね。朝鮮通信使の歴史には、今の我々が学ぶべき大切なメッセージが潜んでいるのかもしれません。
鄭敬珍(釜山大学)
[1] 江戸時代における朝鮮通信使の来日は1607年から1811年までのべ12回行われた。ただ、最後の1811年の通信使行は日本側の要請により対馬訪問に留まったため、実際に江戸までたどり着いたのは1764年の通信使が最後であった。