涼風の詩たち① (21年8月)
東京では最高気温が35度を超えますます暑さか厳しくなっていますが、皆さんお変わりありませんでしょうか。
8月の「あさひてらすの詩のてらす」では、計7作品を3回に分けて掲載します。
タイトルは「涼風の詩たち」です。
こちらはその1回目。あんなさんとエダさんの作品2編を掲載します。
帰ってこないお母さん あんな
お母さんは少し抜けていた いつも一つは、失敗をしていた たまに、本当に、たまに落ち込んでいる その背中はとてもか弱かった いつも保育園のお迎えはお母さんが来てくれる だけど、その日は暗い顔したお父さんが来た お父さんは無言で私を車に乗せた 遅くなってごめんねじゃないの? と私は疑問に感じたが言えなかった その日から、私は強がってしまった。 ある雨の日、明日からお母さんいないよと告げられた お母さんいなくても大丈夫だよね?と 悲しそうで、でも強い顔つきをした父の目をみた。 それから私は、大丈夫!お父さんいるもん!と告げた その日から強がりで物分かりのいい子の私
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夜のかどっこ エダ
ここではないと 漠然とした目眩だけを肯定 その意味すら曖昧なままで ガードレールをたどっても内側の安息 どこまで続こうと変わってもいけない 人混みの隙間にねじ込んだ焦りも ちぎれては摩擦と消えてしまった どの時刻も過ぎて残ったのは 空っぽの眠気と綯交ぜの逃避 靴の底でくしゃくしゃになった 今日に少しの執着が残っている 安価な引き替えじゃ満たされず いつまでも不可能な解消と空腹 どこにも行けないで吹き溜まるごみ屑と ぼくとの区別を誰か教えてはくれないか |
|世話人からの講評
・千石英世より
〈帰ってこないお母さん〉
「ある雨の日、」の1行が読者に迫って来る。これは、出だしの「ある雨の日、」のワンフレーズがそのときの自分を包む世界をつかんでいるからで、つぎのフレーズ「明日から、、、」とがっちり向き合っているからだ、と感じました。あれはあの「雨の日」であったはずだという説得力があります。最終行、体言止めになっているが、「強がりで物分かりのいい子の私」に「なった」、とか、「であった」とか、「が生まれた」とか、何か動詞が来そうなところ、そうならずに体言止めであること、ここに作者の正直な感情がこもっていると受けとりました。だが、その感情を超えるものを期待する読者もいると思います。感情を超えるというのは難しいワザですが、感情を突き放す、ひきはがず、と言い換えてもいいかも。
〈夜のかどっこ〉
タイトルは「夜のどこか」の「かどっこ」で、良いタイトルと思います。で、出だしの1行、素晴らしいと感じます。吹っ切れています。つづけて、全編における動詞の使い方に力強さを感じます。「残る」の一語がかぶっているのが気になります。後者の「残っている」を工夫すると最後の4行に変化が起きるかも、と思って読みました。でも、これはあくまで一読者の感想です。最後の2行が強烈かつ印象的ですので、これはこれでむしろ良いのかも。かぶったからこそ最後の2行が出てきたのかも。とくに最終行はなんかギターの悲し気なコードが聞こえてきそうです。
・平石貴樹より
あんな「帰ってこないお母さん」:わかりますが、あと1行ほしいかな、と思いました。
エダ「夜のかどっこ」:実感ありますねえ。
・渡辺信二より
他者のために自分を抑えるじぶんがいる、他者のために自分を踏みつけるじぶんがいる。詩とは、その現状を自己説得する試み、と云うよりは、むしろ、そうしたじぶんを言語化することで、より強靭な知性の方へ向かわせてくれるべきだろう。それぞれ、続編を期待します。