涼風の詩たち③ (21年8月)
「涼風の詩たち」の3回目です。関根全宏さんと田中はじめさんの作品2編を掲載します。
港町 関根全宏
僕らは何を話すわけでもなく、港町の小さな浜辺で 海を眺めていた。八月の青空の下、目の前にある海は
きらきらと揺れていた。その煌めきを眺めながら 僕は今までのことを思い返したーー
彼女がこの町で過ごしていた時、僕はずっと遠くにいた。 誰かと一緒にいても、僕はいつもひとりだった。
これまで僕が辿ってきた場所と時間は もう二度と取り戻すことができないけれど、
それは、失われたものであるなら、僕の手の中に 永遠にあるに違いないと思ったーー
彼女がこの町で過ごしていた時、僕はずっと遠くにいた。 彼女は時折、足で砂をいじっては、沖を見つめる。
近くには 死んだ魚 魚の死骸がーー もうすぐ午前十時になるところだった。 |
ニッポン哀歌 ―若き高村光太郎「根付の国」に倣って 田中はじめ
辺境の国は いつも 息浅くして 肩で呼吸し 酸欠と貧窮のなか 生きる
金に乏しく 知性に乏しく 恥の上塗り 無知とも知らず なお本分の帰郷 何の消息を必要とするのか 故郷での意見を無視し 中央からの批判には直ぐに土下座する
すくっと立ち上がれば かきつばたを踏みつぶし 金と地位に飢えているが 美と知性に飢えることがない
永遠の中間管理職として サム伯父さんへ上目を使い トム叔父さんたちを見下して生きる ニッポン ニッポン ああ わがニッポン |
|世話人からの講評
・千石英世より
〈港町〉
2行ずつ全7連の作。最終行、この時刻が重要な時刻だということがみしみし伝わってくる。第6連2行目が「見つめる」と現在になっている。「見つめている」とはなっていない。第3連、6連にリフレインがある。リフレインの効果はどういう範囲のものか。時間の回帰、回帰ゆえの幻視(ゆえに現在時なのか)。一方、リフレインは、詩に歌の要素を導入する。歌(挽歌)と第7連の凝視、時間的かつ空間的凝視、そのせめぎ合いの作。 そう解しました。措辞のなめらかさと凝視のゴツゴツ感、そのせめぎ合いでもあると。
〈ニッポン哀歌〉
高村光太郎の見直し、やりたいですね。簡単なことではないけど、そのシンプルさ、まっすぐさ、野太さ、飾り気のなさ、とても真似のできるものではないが、貴重だと私も思うよう言うになっています。そうか、こういう、風刺的な視点が得られればそれも可能なのだと思わせられました。力強い風刺は人を力強くする、一時的にであれ、ユーモアがあれば、つよくすると思い知らされました。立派な作と思います。
・平石貴樹より
関根全宏「港町」:メロディが聞こえてきそうな詩ですが、もう一押しがほしいか。
田中はじめ「ニッポン哀歌」:おっしゃるとおりですね。
・渡辺信二より
この2作品、テーマは全く違うけれど、共通なのは、日本人たちの多くが言葉で新しい世界を切り開くのを躊躇する様が、共に反映されていることだろう。男と女の関係に会話なく、金メダルに湧く世間に対等な議論がないと指摘しているようだ。確かに、今でも我々は、とりわけ大事なことを相手に直接尋ねることができない立原道造のように、「人の心を知ることは……人の心とは……」と自問することが多い。