溽暑に届いた6篇の詩(22年9月)
暑さの続いた先月、あさひてらすの詩のてらすには6篇の詩が届きました。
その名も「溽暑に届いた6篇の詩」、下記に一挙掲載します。
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溽暑の季節に届いた詩(22年9月) ・夏の終わりに ・港町 ・疾る剥製 ・「不安」 ・バットを長く持ってフルスイング ・「輪の中」 |
夏の終わりに おひるね金魚 つぶやく一人 露店の夕べ でもね 今じゃクロチャンと呼んでいる 何も言わずに |
港町 僕らは何を話すわけでもなく、港町の小さな浜辺で きらきらと揺れていた。その煌めきを眺めながら 彼女がこの町で過ごしていた時、僕はずっと遠くにいた。 これまで僕が辿ってきた場所と時間は それは、失われたものであるなら、僕の手の中に 彼女がこの町で過ごしていた時、僕はずっと遠くにいた。 近くには 死んだ魚 魚の死骸が―― |
疾る剥製 黒塗りダンプの運転手初老でそして 夢幻地獄と生活苦と午前五時の薄明
ブルーモーニングおはよう 坊ちゃん三度目の正直なんてねえよ |
「不安」 お金ではなかった 棺桶から形も思い出せない骨壺へ 人は死ぬ 愛情や憎しみとは関係なく人は死ぬ 熱があっても添えてくれる手はない みんながいた夏を思い出す |
バットを長く持ってフルスイング 「おとなしい子は何を考えているの 1か月後、担任の先生が「シンペイ 「どうしてお父さんは友達の名前を 追求を形にするなら、バットを長く |
「輪の中」 手をつないで輪になって 人とうまく話せないのは誰のせい? 朝も昼も夜も、優しい言葉を待っていた 潜る潜る自分の中へ |
|世話人からの講評
・千石英世より
夏の終わりに
メロディーをつけたくなるようなコトバの配列に感心しました。決して合唱曲にはならないですね。と自信ありげにいってますが、ありません。でも、女声デュオでパートを分け合って歌われているなと感じました。伴奏はピアノでしょうか。ギターじゃないみたいに感じます。ピアノで、結構しっかり弾いてもらって、歌声がそのあいだを縫うようにしてコトバが流れていく、そんな作品ではないでしょうか。可憐です。
港町
しっとりと、かつ、じっくりと歌われたエレジー。下から三連目が本作の意味的核のように感じられますが、ここが「失われた」と「永遠」の二語によって普遍性は出てくるが、同時にイメージの行方を見失ってしまうところではないかと感じました。ここに普遍性よりは個別物質性を導入できれば、つまり具体的ななにかの手触り、肌触り、五感が捉えるなにか、を導入できればエレジーの調べが、より深まるのではないかと感じました。あくまで感想として言っています。最後の二行にはそうした個別物質性のすばらしいものがあるのではないでしょうか。
疾る剥製
良い詩だと思います。さわやかなねばっこさを感じます。疾走感もすごい。この疾走感に巻き込まれたいと思わせます。どの連も、連の末尾にすばらしい詩行が登場します。というわけで、「二度とない。。。。」の最終二行にそれらの詩行と勝負してほしかった。タイトルもすばらしい!
「不安」
第1連目、強烈に印象的。いっぽう、それ以下の連とのあいだに飛躍があって、そこを読者は想像で埋めることになるのですが、どう想像すればいいのか。例えば、作中の語り手にとって重要な何者かがたしかに「消えた」、消えてしまった。そのロスの感情が切々と、またリアルに歌われて最終連に入る。最終連の「思い出せるのに 思い出せるのに/ひとりが苦しくて息ができなくなる」ここすばらしいと思います。そして最後の2行がくるのですが、この最後の2行に冒頭第1連は接続する。となると、「お金」と「居場所」は何らかの関係がある推測される。その関係が謎を秘めている。飛躍とはこの謎のことであった。この謎を解明するのは読者、のみならず作者でもある。そんなふうに読みました。切実な内容の詩だと思いました。
バットを長く持ってフルスイング
タイトルになっている「バットを長く持ってフルスイング」がつよく記憶に残るイメージになっていて、作品を前方に押しだす力をもっています。だから最後の連がサビなわけだけど、その直前の連の「お父さんは友達の名前を覚えてくれない」が生々しい。ここをもう少し聞きたかった。「今も変わっていない」というのはどういうかと想像したくなる。そこを少し詳しく書くと、別種の面白さが出て来るのではないでしょうか。
「輪の中」
第1連目、きびしい描写だけど痛みをともなって伝わってくるものがある。右手の記憶、右手の空白、結果、最終連も刺さります。ということは、「右手」がイメージをになっているということかも。あいだにはさまれた所、ここを、いますこしまとまりをつける、行を整理する、それがが可能かとおもいました。そうしたら、くっきり迫りくる詩になるのでは。
・平石貴樹より
夏の終わりに
基本七五調で「でもね」と転調するところが軽妙な味わいでした。
港町
もう一歩、動きというのか続きが欲しいと思いました。
疾る剥製
迫力ありました。特に第1連。ただ最後の2行はやや解説的でしょうか。
「不安」
たとえば中学生時代に母親を亡くしたような、ピュアな悲しみが残りました。
バットを長く持ってフルスイング
みずみずしい感受性ですが、まとまりはやや散漫か。
「輪の中」
悲しい、悲しい実感の記憶でしょうか。
・渡辺信二より
夏の終わりに
昼から夕暮れまでの時間を、金魚と共に過ごしている。一行を7音中心に構成して、全22行の作品です。最終行「わけあう」への伏線が欲しい。
港町
十四行詩です。詩への衝動を強烈に感じさせる。Understatementがよく効いていて、全体、まとまっている。ただ、もう少し読者向けに丁寧にした方がいいと思うのは、2点あり。①冒頭の一人称複数形「僕ら」は、過去形「眺めていた」の主語であるが、これは誰と誰かなのか、作中から推定できるか。第四行目の一人称単数形「僕」がやはり、過去形「思い返した」の主語であるが、これは、「僕らが眺めていた」過去と同一なのか、・・・。②ダッシュとダッシュの間が、「思い返した」の内容だと受け取って良いのだろうが、ダッシュが3カ所あるので、どこからどこまでなのか、混乱してしまう。特に、「彼女がこの町で過ごしていた時、僕はずっと遠くにいた」の反復をもう少し効果的に使うべきだろう。
疾る剥製
タイトルがいろんなことを語っています。抱え込んでいる怒りや不安に対して、号泣するのか、忘れようとするのか。ブルー、青、碧、そして、青春、へと続く青の色彩の言語的変転が面白い。
「不安」
まさしく「脳内再生される記憶」が書かれているのだと受け取りました。ですので、変な言い方だが、ぼんやりと読めば、ぼんやりと分かる。しかし、作り手は、語り手をもう少しコントロールした方がいいのではないかという印象を持つ。例えば、「(誰が?)生きていた頃の記憶」なのか?「消えないと思い込んでいた存在」とは、誰か? 「わたしの居場所」とは具体的に何処か? もちろん、誰なのか、何なのかを、明示してしまえば、語り手の深い悲しみと不安の在処を言い当てることになるのでしょうから、ここは、詩の作り手として、何処まで仄めかすのかという判断が重要になってきますが。
バットを長く持ってフルスイング
気持ちはわかる。わかるような気がする。大抵の読者は、「バットを長く持ってフルスイング」すると、空振りの可能性が高くなるのではないかと恐れる。
「輪の中」
語り手の苦悩がよく伝わるが、なお、具体的なところで読者は混乱するので、作者の介入が待たれる。例えば、「4歳の頃の小さな記憶」だとしても、「空気に遊ばせる」と「人とうまく話せない」、つまり、「お遊戯のしくじり」と「言語コミュニケーションの下手さ」がどうつながっているのか、もう少し詩的説明が欲しい。「お母さんの怖い声」ってあるが、なぜ、お母さんが怖い声を出すのか、お母さんは、本当は何を称えたかったのか?
付け加えれば、「魚」=>「潜る」のイメージが一層の効果を発揮するといいのだが。
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