籾落しの詩 (21年 10月)
夏が過ぎてパラリンピックも終わり、巷では皇室や著名人の結婚に関する話題がのぼる中新しい総理大臣が決まったひと月、みなさんいかがお過ごしでしたでしょうか。
「あさひてらすの詩のてらす」に届いた5編の詩、「籾落しの詩」です。
「籾落しの詩」 ・怒りの詩 ・あなたの新盆 ・きづき ・霧雨 ・シースルー |
みなさまからの作品のご投稿も受け付けております。詳しくはこちらから。
怒りの詩 灰色 衣機
口いっぱいに広がる、しょっぱい味覚 |
あなたの新盆 相澤ゆかり
今年の夏は ちょっと 郵便ポストまで出かけても なぜか つがいの蝶と出会うこと多く 道端につい 足を止め 眼であとを追う
蝶たち 空中に相見え 離れ 契り 絡み合い 不意に別れる その先には それぞれ お目当てのお花があるのでしょう
そうか そうですか 別れがあって 当然ですか 夏の日差しに しばし 目を瞑る
ですから この手紙は 昔 私たちが 住んでいたニューヨークの住所宛にしたので 投函しても こちらに戻ってくるだけ
でも あなたの遺した便箋を前に あなたの言葉が 私に乗り移るようにと そう願って 認めました
船便で送るけど きっと 宛先不明郵便となり 再び 私の手元に戻る その頃は もう秋 私も元気になっているでしょう
あなたのいないあなたの新盆
追伸 律儀なあなたは 郵便屋さんを気にするから 往復分で 郵便切手2倍貼ったけど でも配達不能郵便になったら やがて焼却処分されて あたしの気配や匂いがあなたに 届くかもしれない ーーあなたのΩから あたしのαへ |
きづき リリーユカリー
青春時代は路面電車の街 夕闇の坂道をのぼれば かきいろクレヨンでぬりなぐった夕焼けが 空いっぱいに広がる
たちどまりずっと眺めていると かきいろと私は溶け合って 静かな情熱が溢れるのを感じる うつくしくてせつなくて
それがわたしの原風景 今は眠ってる本当のわたし
でも気づいてしまった これはキラキラした化石だと 化石は歴史や宝物にはなっても 美しい死体なんだ
ゆっくり深呼吸してから考えた 新しい自分になることを 土の中の種はまだ芽吹いてもいない わたしはわたしを創るのだ
だって気づいてしまったんだから |
霧雨
風に舞うつめたい雨が |
シースルー
街路を行く人影が |
|世話人からの講評
・千石 英世より
「怒りの詩」
声だして拝読しました。ストレートで、粗削りで、魅了されます。良いと思います。声だすとコトバと一緒になぜか体が揺すれてきました。リズムセクションに追い詰められる男声合唱曲のようです。叫びをあげたい、私も!
「あなたの新盆」
3連目、「そうか そうですか/別れがあって 当然ですか」のそっけなさに初読時おやっと思ったが、再読時、このそっけなさが切ない、はかない、せまってきました。虚無。無常。生死とはこの程度のものなのか、と。でも、5連目、「でも あなたの遺した便箋を前に/あなたの言葉が 私に乗り移るようにと/そう願って 認めました」で、希望というか人間の執念というか、人間の交流というか、つまりは詩が芽生えます。そして最終2行、昇華の儀礼儀式だと思います。
「きづき」
終わりから2つ目の連、「土の中の種はまだ芽吹いてもいない/わたしはわたしを創るのだ」、の1行で、もう、わたしはわたしを「創」ったのだ! と思います。よく言われることですが、「創る」は傷つけるの意を含みます。絆創膏の「創」がそれです。「倉」の右の「リ」が刃物だといいます。1連目、「かきいろクレヨンでぬりなぐった夕焼けが/空いっぱいに広がる」のところ、なぜ、ぬり「なぐった」のか、これで納得です。やはり「なぐった」のです。激しい詩だと思いました。
「霧雨」
なかほどの「秋の癒しはまるで/諦念のよう」、本作を凝縮した2行だと解しました。であるがゆえに、かえって、詩の本体のなかでは言わないほうがいいと思いました。詩の外に漂い流れ、読者を包む情感にすれば、その後につづく「とおい北で興る/波群が訪れる」の鮮烈な2行がさらに鮮烈さを増すように思いました。あくまで一読者の勝手な感想です。お許しください。
「シースルー」
最終行、感にいります。感に堪えません。素晴らしいと思います。これでここまでの全行が生きてきます。
・平石貴樹より
「怒りの詩」おおいに乗せられ、共鳴しましたが、タイトルがぜんぜん違ったほうがかえってよかったのかもしれないと思いました。
「あなたの新盆」完全に一編の歌になっていますね。立派なものです。
「きづき」感動しました。新しい自分をこれからどうやって表現するか、がんばってください。
「霧雨」すごいものです。「すこし肌さむく」にしびれました。
「シースルー」これは私にはむずかしすぎました。ごめんなさい。
・渡辺信二より
日本語における自称の変幻自在さは、何を、日本の現代詩にもたらしているのだろうか。
今回の投稿作品から拾うなら、自分を踏みつける見捨てられた心、秋には元気になる「私」を支える「あたし」、「わたし」と「本当のわたし」、影の「わたし」・「じぶん」の影を見つめる不称の者、・・・。
自称を不安定にしたり、自称を削除すれば、おのれであっておのれではない不思議な時空感覚を枠取るができる。これが、日本の現代詩の神出鬼没さ、不確定さ、捕捉不可能性を照射しているのかもしれない。ただし、その良し悪しを決定するのは、歴史ではないだろう。