梅の実色づく季節の詩 後編(22年6月)
「梅の実色づく季節の詩」の後編です。前編はこちらから。
梅の実色づく季節の詩 後編 ・カレンダーの外で ・「孤独をわらえ」 ・「誕生日」 ・窓辺にて ・真夜中を大人として |
カレンダーの外で 途切れることのない日付け表示の
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「孤独をわらえ」 雪藤カイコ
ため息をついて目を閉じた夜は ため息をついて目覚める朝になる
おひとり様旅行のパンフレット 調べるだけ調べて 妄想満タン錯乱状態で魂を逃がす 口から出るのはおそらく命の蒸気 どこからともなく機関車の音が聞こえた 今ならうまく飛び乗れるはず 切符がないからどこに行くかわからない 高音の汽笛、高鳴る鼓動 座れる座席はひとつもなく ここでもひとり立っている それでも変わりゆく景色に胸は躍る 人の顔色は気にならない ビルも家も畑も田んぼも あっという間に後ろに飛ばされて少し愉快 愉快だと思った 見えていた景色が一瞬で消える この体もそうだろう
気づけばひとりベランダで雨雲を見ていた 雨雲を突き抜け青空が見たいと手を広げて |
「誕生日」 葉っぱ
誕生日 生まれてきたことを祝福する日 あなたがいなかったら こんなにうれしい気持ちになることもなかった
誕生日 今まで頑張ってきたことをたたえる日 あなたがいるから 私がいるよ
生まれてきてくれてありがとう 生きてきてくれてありがとう
誕生日おめでとう! |
窓辺にて 日々草
私はそのままありのままでとても素晴らしいのに 他人には認められず、必要とされない 認められず必要とされないなら、それはお前が悪いからだと きっとそうなのだろう そういうことなのだろう でも、私は他人のために生きてるわけではなく 私は私の幸せのために生きているのだから 別にそれでいいのだ
そんな私にも一つ望みがある それはたとえどんな小さなことでもいいから、 他人を、本当に他人を幸せにしてみたいという願い いつか、その願い叶うように 今日も私は、私のために生きている |
真夜中を大人として 後藤新平
僕はサッカー少年だった。 小学校1年生から6年生まで。 好きだから続けたようなモノだ。
いつだか、少年団の仲間たち全員が 泣き崩れた試合があった。 僕ひとり、泣かなかった。 親御さんたちが見ていたという事も あったが、僕は「泣くほど練習したか?、努力したか?」 という思いが強かった。
僕だってもちろん悔しかったが、その時、 僕は血に涙を注いだのだと思っている。 いつか精いっぱいの夢を叶える時に 動けるように。
今、僕は真夜中を大人として生きている。 昼間のお仕事を手を抜く事はない。 すべては繋がっているのだ。 |
|世話人からの講評
・千石英世より
カレンダーの外で
最後の5行、何か感じます。すごく感じます。でだしのマス目カレンダーの捉え方にも惹かれます。地下鉄の乗り換えのところもいいなと思います。全体を通してこのマス目の影響下、というより拘束下にあるのでしょうか。いや、保護下にあるのでしょうか。いずれであれ、もしそうなら、そのことを少し強調する手もありかと。でもやり過ぎるとうざいか。むずかしいですね。
「孤独をわらえ」
楽しみながら読み終えました。スピード感があり、歯切れ良くて、一瞬の痛みもあって、いい作品だと感心しました。最後の「手を広げて」を「広げた」とすると、どうなるか。作者熟考のすえの「て」でしょうから、読者方の妄想でしかありませんが。
「誕生日」
シンプルで深いことばたち。足すものなく引くものなし、ですね。
窓辺にて
このタイトルにあるとおり「窓辺にて」これら13行を文字に起こしたのだと感じさせて、そう、そうだ、その線で行け! と応援したくなります。
真夜中を大人として
記憶とは今のことだ、とあらためて思わせられます。たとえそうではない記憶のカタマリがあったとしても、それコミで未来直近にある今なのだと。
・平石貴樹より
カレンダーの外で
日常の感覚を幻想でいろどった作品でしょうか。
「孤独をわらえ」
タイトルどおりの苦笑の精神ですね。
「誕生日」
ちょっと童謡ぽいかな。
窓辺にて
まさにそれでいいのだと思います。
真夜中を大人として
いやあ、きっぱりと頼もしいです。タイトルの1行がいいですね。
・渡辺信二より
来し方を思い、行く末を図る機会は、多くに人にとって、お正月であろうか。しかし、詩を書く者たちにとって、過去を省みて将来を見通すは、今に如かず、今にしかあらず。ならば、今を最善に生き抜かずに、何の生命であろうか。今を祝さずして、何の人生であろうか。そういう覚悟が伝わってくる作品たちである。