涼風の詩たち② (21年8月)
涼風の詩たちの2回目です。今回は麻未きよさんの3作品を掲載します。
昼下がりのテラス 麻未きよ
方舟に似たテラスで 雨をみていた
ずっと泣いているひとがいて 滝しぶきのように悲しみが降ってくる もらい泣きか 私自身の悲しみなのか 今朝はゴキゲンだったことも 生あったかく溶けて見分けられない
あのころ公園のベンチで 震災で家がないと電話をかけるひとがいて きこえないふりで逃れた 私はそんなひとだ 苦しむ世界のリアル よこたわる茫漠のスペース ただ一人分が大きすぎて
氷の音色がいきかう このひとと私は別の岬ほど 遠いところにいるかもしれない おかわりしたアイスティーも少しになる でも席を発つまでここにいたい 見おくる気持ちは何かを伝えるかしら 生垣がそよぐ ガーデニアと雨の香りがする |
雨ノ中 麻未きよ
遠雷がきこえる また雨が来る 無表情へマスクをつけ重い体で急ぐ私たち
〈 命は助かりました 体に障害をのこすかもしれません 〉
担任から級友の知らせを聴きながら あのとき母たちはまったく同じ物になり 血が吹き出さないように 後ろ手に運命を押さえた
体の存在だから こんなに脆く 巡礼者のように歩んでいるの?
疾風が駆ける通りを 水の波紋が海原をめざして連なっていく 天然の意思が 人工を抱きとって ひたすらに進むよう 流されないように ここへ掴まるけれど
おびえることを知らない 京という垓という生きものたち 華やかに雷光へ咆哮 はげしい雨の中で |
ひそやかな翳り 麻未きよ
ステイホームをバネにして制作したという 上手に宝塚の役者を模した人形は 友人本人と顔が似ていて笑えた
通りかかる公民館まえに消毒臭 ワクチン接種をすませたひとの閑談 壊れながら 祝いながら
いのちは体で器官とおしえられ 幼な子のように自分をさしだしてきた バランスシートの上に並んで 順序に気をつけながら時を過ごしてきた パーツをつなげて形どられた 愛すべき手作り人形ともどこか似て
翳った深淵の気配が どこからくるのかと探している 足元の植込みをふいに鳥が飛立ち 蝶々が二手へ分かれてひるがえる 気がつくとひそやかに渦を巻く風が 私もしらない私をかこんでいく |
|世話人からの講評
・千石英世より
〈昼下がりのテラス〉
苦くも美しい詩だと思います。苦さが重い。最後の2行がシメになっているのですが、「雨」単独でシメにする詩人もいるかなと思いました。どう違ってくるのかを考えてのことではありません。余計な感想ということでスルーしてください。
〈雨ノ中〉
全6連の作品。第1連と第6連を、中抜きして直結させて読めば、中の第2連から第5連のイメージが鮮明になり迫ってくる。すると、そこに使われている単語がやや大振りかつ、古風に見えるのだが、それが場違いでないことが理解され、この詩を受容することが可能となる。となると、あらためて第6連の「京という垓という生きものたち/華やかに雷光へ咆哮」は、辞書を調べて初めて分かる単語なのだが、にもかかわらず、その適切さが伝わってくる。全6連のそれぞれに時系列が示唆される単語が入っていれば「後ろ手でに運命を押さえた」という秀句がさらにグサッと刺さってくる超秀句になるように思いました。むろん、現行でも十分グサッときているのですが。。。。ということは。この感想、間違った感想かもしれないです。でも、記したままにしておきます。
〈ひそやかな翳り〉
全4連の作品です。第4連、「私」は今、公園のベンチにいる。「翳った深淵の気配」と「ひそやかに渦を巻く風」は一つの(流れる)ものである。鳥と蝶々は軽快な姿に見えて、
実は逆かもしれない。重たい体で飛び、重たい体で逃げて行くのかもしれない。もしそうなら、「私」は取り残されるものである。もしそうなら、そこから第3連にさかのぼり、「私」の危機が語られていることになる。「いのち」「体」「器官」「パーツ」「幼な子」「人形」と「私」の部分部分に言及される。部分性が自覚される。この自覚は危機の自覚と思える。この順に第2連、第1連とさかのぼって行く。この作品の真意が伝わってくる。重い詩であることがわかる。となると、第1連の怖さが増す。難しい感情を詩の形にして、よくとらえていると感心しました。
・平石貴樹より
「昼下がりのテラス」:とても好きです。
「雨ノ中」:よくわかりませんでした。
「ひそやかな翳り」:すばらしい!今回の中で最高と思います。不安感が最高というのも変ですが。
・渡辺信二より
それぞれの作品が、どうしても直接表現したくない何かを詩作への原動力としているように思うが、でも、そんなにじぶんを責めなくてもいいのではないか、と云うのが第一感です。時来れば、多分、その何かの渦中にいる語り手と、それを受け流して素知らぬ振りする別のじぶんとの落差がより強く読者に訴えかけるだろう。